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自我を壊し自己を見出すきっかけとなる『破壊者』|『英雄の旅』の12のアーキタイプ:6

2018.3.15

キャロル・S・ピアソン著『英雄の旅』 より12のアーキタイプをご紹介するシリーズの、今回は『破壊者』です。

ここでご紹介する『破壊者』以降、『魂』という言葉を使うことになります。著者、キャロル・S・ピアソンが『スピリット』あるいは『プシケ』と使い分けているのを、日本語では『魂』とのみ訳されています。
英語のスピリット・プシケはもちろん、日本語の魂と呼ばれるものも、どう定義したらいいのか私にはわかりません。
多くの人が一度くらいは耳にしたことのある言葉でしょうし、宗教や、ちまたのスピリチュアル関連ではよく使われています。それぞれに、なにかしらの形で「こんな」というイメージをお持ちでしょう。
それがなにかを具体的に知りもしない私個人が、魂とはこうであると言葉を定義するよりは、読んでくださる方、個々人のイメージを大切にしていただいたほうが良いだろうと思います。

本の『破壊者』の項では、多くのページをさいて『通過儀礼』について述べられていますが、当ブログでは割愛します。理由は2つあります。
1つめは、破壊者と通過儀礼には共通点が多く感じられ、私自身がそうであったように、混乱・混同のおそれがあること。2つめは、通過儀礼は破壊者と密接に関連しているものの、破壊者にのみ特有なものではないから。
『通過儀礼』という言葉も使ってはいますが、どういったものなのか?については、いずれ別のところでご紹介させていただこうと考えています。

destroy

はじめに

当ブログでは、ピアソンの著書に沿って、『幼子』『孤児』『戦士』『援助者』を、“私”あるいは“自分”という感覚の座となる“自我”形成のグループとしてご紹介済みです。
その後に『探求者』を、“自己”を創り上げていくのに手を貸してくれるグループの最初のアーキタイプとしてご紹介しました。

ヒーローズ・ジャーニーの図に照らしてみれば、私たちは暮らしを営む日常の世界=自分の外的世界から、特別な世界=自分の内界へと入っていき、旅を続けます。
このような分け方を踏まえれば、自我は自分以外のもの(=外)との関わりにおいて、自己は自分自身(=内)との関わりにおいて、それぞれに形成されていくようにも感じられます。

蛇足になりますが、私の学んだサイコシンセシス(統合心理学)では、自己実現、つまり自己を現実世界において表現することを目標に掲げてもいます。
おもしろく思うのは、自己は“私”が生きているだけでは実現していないというところです。私たちは自身の内に自己を発見し、日常生活の場である現実世界に表現する術を獲得しなくてはならない。それができて初めての、自己実現なのです。

では、破壊者が、どのように自己の形成に手を貸してくれるのかを見ていきましょう。

このページでの引用は、特別な記述のない限りすべてキャロル・S・ピアソン『英雄の旅』よりの抜粋となります。

破壊者との出会い

旅に出れば、自分自身のパワーを体感することが可能になる━━それは、破壊と創造のためのパワーなのだ。世の中には、いずれは別れが訪れるはずの相手や傷つけてしまいそうな相手に対する責任や変容という性質を持った英雄が必然的にもたらす損害に対する責任を回避するために、自分のパワーを行使しようとしない人間が大勢いる。自分は無力だと感じていれば、他人を傷つけたことに対して責任をとる必要はない。自分が創ったわけではない世界で、閉塞感を味わいながら生きていくだけのことだ。

少し辛辣とも取れる表現がなされている部分の引用から、始めます。あえて、選びました。おおげさに不安を煽りたいからではなく、覚悟を促したいのです。

先の『探求者』でもお話ししたように、私たちは生まれてから、私たちの所属する社会で生きていけるよう自分を創り上げてきました。具体的な方法や成果はどうあれ、あくまで社会に適応するように、です。
私たちが自分の内に自己を見出そうとするとき、往々にして、これまで創り上げてきた自分自身を壊す体験をします。自己とは、身の内から表れるものだからです。私たちが生きていくために身につけた“自分”という役割には収まりきらないものだからです。
それまでを、他者から課せられた役割など演じた覚えはなく、自分自身に正直に生きてきたと言う人にとってであっても。

自分が壊れる体験をしたことがありますか?

破壊者との出会いは突然かもしれません。
喪失の体験、痛みや苦悩、恐怖や悲劇によって、破壊者が覚醒します。
具体的には、自身の病の発覚や最愛のものを失ったりなど、死という運命を眼前に突きつけられ否応もなく実感したときです。自分が心から頼りにしていたもの・目標としてきたもの・築き上げようとしてきたものが水泡に帰したと気づいたとき、まさか自分の身に起こると思ってもみなかったような被害を被ったときなども同様です。

破壊者とは、私たち自身を破壊する者です。上述のようなひどい痛手を負っているのに、さらに自分自身を破壊しようとする者が目覚めるのはなぜか?
ここに破壊者が私たちに与えてくれる課題があり、授けてくれるギフトがあります。

破壊者の特徴

破壊者が立ち去った後の虚無は、孤児が体験する遺棄よりも深刻で、人の気力を奪うものだ。破壊者は、充分なアイデンティティと物事に対処する力があると自信を持っている人々が人生の最盛期を迎えている最中に、その拳を振り下ろすことがある。不正行為を罰するためではない。

不正な行為を罰せられてのことなら、私たちには理解ができる。しかし、魂の復活のための通過儀礼には、筋が通っているかどうかなどはまるで関係がありません。むしろその逆であることもあります。

私たちが社会に適応して生きていけるように創り上げた“自分”のことを、ここでは“自我”として、話を進めます。
自我はコントロールが得意だとも言われています。このコントロールは、自分自身を縛りつけるものでもある。自我にコントロールされたままでは、私たちは“本当の自分”とでもいうべき“自己”とは出会えません。

例えば、私は10代のころ、父から「女の人も自分一人を食わせていける収入を持つべき」と言われたことがありました。
40歳目前に心身の調子を崩しても、私自身「定年まで働くもの」と信じて疑っていませんでした。ところが、どうにも続けていけそうにない。休職中には、物理的に体がバラバラになりそうな感覚を感じていました。自分の内側からの「いやだ!」悲鳴にいくら耳を塞いでみたところで、聞かないではいられません。
なにがいやなのか? なにがいけないのか? どうしたらいいのか? 考え続けました。仕事を続けるための方法を探しました。「どうしても辞めたい」を認められなかったから。
私にとって、仕事を辞めること=自分を食べさせていけなくなることで、ずっと働いていくものという信念を捨てることでした。元々は、父から植え付けられたものだったとしても。
それ以降どうなったかというと、やっとこの破壊者から先、自己の創出にかかわるアーキタイプを理解できるようになってきています。

死を自覚するからこそ、成功や名声や富に過度の執着を抱かずにすんでいる。死に呼び戻されて、本当に大切な者を忘れるなと釘をさされるからだ。

破壊者が目指すものは、成長であり変身です。破壊者が覚醒すれば、私たちは「それでいいのか?」と問われます。「それがおまえか?」と。

私個人は、破壊者と出会うたびに「それがおまえの望むことか? 本当に?」と試され、確認されているように感じます。「そうだ!」と応えてみても、許してはもらえません。自分の殻を割るまでは。殻を破壊されることで、やっと「そうだったのか、違ったのか」と驚愕し、納得させられたこともあります。それまでは、本当に信じていたのに。

破壊者が恐れるものは、停滞であり、消滅や復活のない死です。
変化していかないものなどありません。人間でも、物でも、環境でも、形のない思いでも。停滞すれば、破壊者が訪れることもあります。
破壊者に主導権を握られてしまうのは、恐ろしいことでもあります。破壊者の解決法は、破壊するか・されるか、だからです。そこまでが必要でないうちに、変化して・させておけるものも多々あります。

破壊者の3つのレベル

レベル1: 混乱状態、死や喪失や痛みの意味を理解しようとする努力

レベル2: 死という運命と喪失、両者に伴う無力な状態の容認

レベル3: 自分や他人の価値観や成長を支えてくれなくなったものを手放そうと決意する能力

心が壊れそうなひどい体験をしたとき、私たちは自分が壊れないよう、外にあるなにか・誰かに怒りをぶつけたり、憎しみを抱いたりします。自分自身ではない外部へと攻撃の矛先を向けるのです。
運命を呪ったりもするかもしれません。しかしやがては、あのとき自分がああしておけば、自分がもう少し早ければ、など、自分自身の内へと意識を向けていくことになるでしょう。
身の内から溢れ出す悲嘆や後悔の叫びを聞かないではいられない。最終的には、これほどの苦しみを味わうくらいなら・続くようなら・終わらせられるなら、自ら死んでしまいたいと望むかもしれません。

これら、他者に破壊的な影響を及ぼすようなことや自己破壊的なものの、およそすべてに破壊者は内在しています。

心理学的に考えると、自発的に自分の痛みと向き合おうとしなければ積極的に喜びを味わうことはできないということだ。自発的に自分の無知と向き合おうとしなければ、英知を手に入れる機会はめぐってこない。孤独を感じることがなければ、愛を経験する可能性は低いだろう。突き詰めれば、自分のまやかしの部分から目を背けていると、心を開いて魂を受け入れることはできないということになる。

破壊者の破壊は、強烈です。
私たちは、できることならば、自ら変化を選択し遂行していくことで破壊者が主導権を握るのを回避し、協力を得るのが懸命でしょう。
それには、自らに必要のなくなったものを自発的に積極的に、手放していくことです。現実的なところでは、衣服や持ち物の整理、うまくいっていない人間関係を断ち切る、心理学的には考え方や行動パターンを変えることなどが挙げられます。

身の内からの望みでなく、外界から取り込んだ価値観や役割などで満足していると、破壊者の否定的な側面である自他への破壊的な行為へと駆り立てられていくこともあります。

破壊者の課題

破壊者の課題は、自己の解放です。ときに理不尽としか思えないようなタイミング・やり方で破壊の拳が振り下ろされるのは、自我にとっての最悪が、自己を見出す最高のときだからかもしれません。

自我の完成は、ときとして私たちの表側の殻が強固になることです。社会的に成功し、金銭的・物質的に恵まれた暮らしをしていたら、私たちの心は満たされるでしょうか? 日々を生きいきと、自分が生きている実感をもって生きていくことができるでしょうか?
極端なことを言えば、生きている実感が最も強く感じられる瞬間は、さまざまな困難を乗り越えてやっとのことで幸運にも生き延びたと実感できた瞬間ではないでしょうか?

外部から破壊がもたらされると、私たちは自分は無力だという思いに━━運命の手から逃れることはできないという思いに━━とらわれる。(中略)自分の体や意志が死後の世界とつながったように感じ、さらには、「自分はただの無垢な犠牲者ではない。死や邪心や虐待性は自己の中に巣くっているのだ」と気づくようになる。自分の中に死が存在しているとさとるのは、影(シャドウ)を実感する強烈な体験となる。
この体験によって力を発揮できなくなる者もいれば、変容の力を蓄える者もいる。

破壊者の、ときに完膚なきまでの徹底的な破壊は、私たちを無防備な、まるで裸の状態にしてくれます。
社会的に成功していたとしても肩書きは通用しません。いくらでも物が買える金銭力があったとしても、痛みを止めることはできません。

心や体が弱ったとき、誰かのしてくれたちょっとしたこと・言ってくれたささいな一言で救われたことはありませんか?
丸裸にされ、なす術もないときこそ、私たちは最も謙虚になれるのではないでしょうか。

謙虚さと、人間の力ではコントロールできないものに対する受容の態度が、破壊者の授けてくれるギフトです。

探求者が高みを目指すように求めてくるとすれば、破壊者は、心の奥深くへ降りていって創造だけでなく破壊の能力も統合するように呼びかけてくる。

破壊はなんのためか? 新たな創造のためです。
私たちは世俗的な自分という一度創り上げた殻を脱ぐことなしに、本当の自分をこの世に現すことができません。別の言い方をすれば、自己という名の新しい命は、卵の殻のような自我を割って現れるとも言えそうです。

さいごに

神秘の世界に入っていく際には、ほぼまちがいなく、恐れと向き合って、宇宙の究極の現実は心地よいものでも整然としたものでもなく、人の力でコントロールできるものでもないと認識しておくことが必要だ。情熱に身を焦がすにせよ、生と死の神秘に触れるにせよ、その体験は自然のサイクルの一部であり、複雑で、深遠で、自我を脅かすと言う特徴を持っている。

現実社会では私たちは大人になっていくとともに、養育者の庇護を受けずとも、社会が用意したルールに沿わずとも、生きていく力がついていきます。誰かの息子・娘ではなく、私自身として生きていくのが可能になり、また内側からの望みとして感じていくようになるでしょう。
しかしすでに手に入れた、現実のあれこれを自ら進んでは手放しがたい。そのときに持っているものは、役割によってもたらされている。だとしたら、役割も手放せなくなる。

赤ん坊として生を受けてからこの世の中で生き延びるために身につけた数々の戦略も、内界においては通用しません。
自分の内側という特別な世界で新たに学ぶためには、それまでに身につけたものを捨て去ることが必要です。自ら捨てられないもの、捨て忘れたものは、破壊者に破壊されます。
これは自我の死にたとえられます。

私たちが神聖なるものとの結びつきを断たれているのは、幸福や社会から受け入れられることに執着しすぎて自分の全体性という真実と向き合えずにいるせいなのだ。
神秘の世界に足を踏み入れれば、死に至る道を歩くことになる。だが、運に恵まれれば、それは愛に━━人間の愛と天上の愛の両方に━━続く道にもなり、その道を歩むことで自己に命が与えられる。

通過儀礼はこうであるだろうというイメージに近いのは、破壊者です。しかし、通過儀礼は破壊者だけのものではありません。
次にご紹介する『求愛者』もまた、通過儀礼と深い関係をもちます。