自立し徒党を組む『孤児』|『英雄の旅』の12のアーキタイプ:2

2017.10.25

ヒーローズ・ジャーニーについて書かれた本は、私が所有するだけで4種類あります。その中の1冊、キャロル・S・ピアソン著『英雄の旅』より、12のアーキタイプをご紹介しています。
本については自身の内界と向きあい人間的成長を促すための本 、最初の『幼子(おさなご)』については 信念は『幼子(おさなご)』にあり で、ご紹介しました。
2番目の今回は、『孤児』のご紹介をしていきます。

walk-away

はじめに

私たちが最初に出会うアーキタイプは『幼子』でした。生まれたての私たちは、養育者の庇護の元で、望みはすべて叶う完璧な世界に育ちます。これが楽園の原型だとも云われ、私たちは生涯に渡って失った完璧な世界を求め続けるとも云われています。
私たちは、覚えていずとも、全能感を体験したことがある。

さて、現実世界で育つ赤ん坊は、やがて“転落”というなにがしかの過ちをおかし、楽園を追われます。

このページでの引用は、特別な記述のない限りすべてキャロル・S・ピアソンの『英雄の旅』よりの抜粋となります。

孤児も幼子と同様の“転落”を体験するが、その後の行動にはちがいがある。幼子は辛い体験を踏み台にしてそれまで以上に努力を重ね、「もっと強い信念を持とう」「もっと完璧で人から愛される人間になろう」「もっと価値のある人間になろう」と考える。孤児の場合は、「人は自力で生きていくものだ」という本質的な真実が立証されたものと考える。

こうして比べてみると、違いが明らかになります。
上記引用内で語られる幼子の純粋さは時に、頑なでそれ以外を認めないという否定につながることがあります。幼子の否定的な側面としての“否定”です。
時折、アダルトチルドレンという言葉を見聞きすることがあります。幼子が自己を否定し、養育者や権力者を正しいと信じる傾向が顕著に現れたひとつの形かと、私は思います。
庇護の元にあるという状態に執着すると、自分より強いもの大きなもの、つまり自分を守ってくれる者に執着することにもなります。庇護の元に安らいでいるつもりで、いつの間にか、権力の元に自らを束縛することにもなりかねません。

孤児は以下のような体験をきっかけとして目覚めます。

孤児との出会い

孤児の人生を体感したかったら、誰も来てくれないと知りながら、ベビーベッドで泣きつづける赤ん坊を想像してみるといい。涙はそのうちに枯れるだろうが、痛みと孤独は胸に染みついて消えることはない。

孤児のアーキタイプをイメージするのに役立つイメージは、自分の面倒をみることもままならない年齢で庇護を失った子どもでしょう。
具体的な例としては

  • 親に死なれた子
  • 捨てられた子
  • 育児放棄・虐待・姉妹兄弟などより差別的に扱われた子

たとえどんなに物質的に恵まれた環境にあっても、できた両親がいても、傍目からどう映ろうとも、精神的肉体的に安全を感じられない子どもたちは、孤児のアーキタイプのイメージと合致します。
少し脱線ではありますが、もし私たちが自分の親に愛情深い態度や優しさにあふれた慈しみなど自らの理想像を期待したとしたら、私たちはそれだけで裏切られたと感じる可能性が高くなります。
孤児は、私たち自身が創り出すとも言えますね。

孤児が目覚めるきっかけ

孤児のアーキタイプが活性化し始めるのは、私たちの内なる子どもが、見捨てられ、裏切られ、酷い扱いを受け、無視され、幻滅させられたと感じるような体験をした時だ。

こういった体験には、肉体的な年齢は関係がありません。私たちの内なる純粋で柔らかな部分が感じたときならいつでも、です。
しかし、先に述べたように、必ずしも孤児が活性化するとは限りません。同じ状況で幼子が決意を新たにし、躍進しようとするばあいもあるでしょう。
違いは何でしょうか? 私個人の意見でしかありませんが、それでも信じるかどうかにかかっているように思います。

健全な成長を続けていけば、私たちはいつかは何かに裏切られます。たとえ幼子が否定し続けたとしても、楽園を守り抜こうといくら頑張ってみたとしても限度があります。
失望や幻滅、見捨てられたと感じたり、裏切られたと感じることは、私たちの成長に必要なプロセスであり、通過儀礼と呼んでも差し支えないのかもしれません。
孤児が活性化することで私たちが学ぶのは、「世の中は必ずしも安全な場所ではなく、人生は誰にでも平等でもなく、人は善良とも限らず、この世には絶対確実なものなど存在しない」ということです。

孤児の特徴

孤児は失望を味わった理想主義者であり、幻滅を感じている幼子ということになる。幼子が「清らかな心と勇気は必ず報われる」と信じているのに対し、孤児は、「報われるとは限らない。それどころか、邪悪なものが成功を手に入れることさえある」という認識を持っている。

孤児の肯定的な特徴

  • 自立、依存からの解放
  • 現実を冷静に見る力
  • 結束、相互支援

否定的な特徴

  • 責任転嫁
  • 不信、反発
  • 機能不全
  • 被害妄想
  • 冷笑的

孤児は裏切られ、見捨てられています。その体験を通して、養育者の庇護から自立するのです。
幼子が信じ夢見た楽園は現実には存在しないと思い知り、孤児になったばかりの頃、目前に広がっているのは、不公平と困難・差別や弱肉強食の世界かもしれません。
幻想と現実の違いを学ぶのです。

孤児の中には、現実の過酷さや不平等の酷さに怒り狂い、権力そのものに刃向かおうとするものもあるでしょう。
不合理になすすべもなく、傷が深いあまり、機能不全に陥るものもあるでしょう。
誰かの差し出す救いの手を見ても、不信感ゆえに受け取ることはおろか相手を攻撃し、相手と自分の両方を傷つけることもするでしょう。
孤児でいるうちは、援助を受け取れません。援助をためらいなく受け取れるのは、幼子です。

孤児の傷を悪化させてしまうと、犠牲者の色合いが濃くなっていきます。自分の受けた不当な扱いや弱さをアピールし、哀れみを引くことで特別扱いや責任逃れを企むこともあるでしょう。苦しみのうちにあることを理由とし、自分の能力などの不足を顧みることなく被害妄想を強めていくかもしれません。
犠牲者になることは、孤児にとっての問題回避の手段です。

一方で、孤児として力強く育っていくと、自らの痛みを全身で受け止めていくようになります。
力強い者・大きな者の庇護下から自由になり、自分で自分の人生をコントロールする術を見出そうとするのです。
その過程のどこかで、孤児は徒党を組みます。

孤児の3つのレベル

レベル1: 現実を受け入れ、痛みや無力感、信頼の喪失を実感する。

レベル2: 助けが必要だということを受け入れ、自ら救いや支援を求めるようになる。

レベル3: 権力者に依存する代わり、相互の助け合いと団結の精神で同じような立場の人々との関係を築く。

覚醒したての孤児は、身動きできないほどの無気力で無力な状態にあるかもしれません。信じていた世界が砕け散った後なのです。
そうまでならずとも、他者に裏切られたことを理由としてすべてに背を向けようとします。自分自身に対しても、です。
自分が抱いていた夢や憧れ、また自分自身に対してもっていた理想も、身の程知らずだったと感じているかもしれません。
幼子の楽観的でともすると非現実的な世界に、孤児は反発します。疑ってかかるのが孤児です。

孤児には、不信の時期があるでしょう。落胆や拒絶や放置を経験したばかりで傷も生々しく、いつなんどきまた襲ってくるかもわからないものと感じて身構えているでしょう。
この時期の孤児にとっては、失望はむしろ親しいくなじみ深いがゆえに「やっぱりね」と思えるものとも言えます。
「やっぱりね」と思うために、期待を制限したり、挑戦意欲を失ったり、自らチャンスをふいにしたり、わざと相手が拒絶したくなるような言動をとったりもします。

孤児の課題

心の傷は誰もが負う者であると同時に、自我を築くプロセスと、魂と結びつくプロセスの両方に欠かせないものだ。孤児が授けてくれるギフトは、自分が傷を負っていることを認識し、心を開いて自分の恐れ、脆さ、傷そのものを(安全な環境で)受け止める助けとなってくれる。そうすることによって、黙って攻撃に耐えているだけの状態を脱して、他人と触れ合うことが可能になる。

孤児はまず、自分を癒さなければならないでしょう。傷を負った身です。そのまま無力感を抱えていれば、自分を立て直すこともできません。自分自身にさえ背を向けている状態では、「立ち直らなくては」と思うことさえできません。
こういったばあい、同じような虐げられ抑圧された者同士が支え合って癒されていくことがあります。
そういった意味でも、孤児の成長の課題は、他者と結束する術を学ぶことです。

孤児は上下の関係性から脱却し、より親密な横のつながりを作っていきます。

孤児が育っていくと、現実的な視点も育っていきます。人間の限界をわきまえ、もたらされる痛みを充分に味わうことができるようになってもいきます。
痛みを感じないのは幼子的な否定です。痛みを我慢するのではなく、認め受け止め味わっていくのが成長した孤児です。だからこそ、孤児にはより良い世界を築いていく力があります。
幼子が「誰かがやってくれる」と待ち望むようなことを、孤児は「自分がやらずに誰がやる」と言うのです。

この段階の孤児は、子どもが親に反発を示すようになり、兄弟や友だちたちと一緒にいようとする時期に似ています。
孤児は、自分と同じように抑圧された人々と一致団結し互いを支援しながら、大きな者に反旗を翻すためにも徒党を組むようになっていくのです。

さいごに

自分の中にいる孤児の存在を認めずにいると、孤児は、世の中からはもちろん、私たちからも見捨てられたままだ。(中略)私たちはいつどんな時でも「だいじょうぶ」だということになっているが、それは、ほとんどの人々が自分の弱さを隠し、道に迷い、まわりから裁かれるのを恐れてインナー・チャイルドを傷つけていることに他ならない━━しかも、裁くほうの人々も、自分の中に傷ついた子どもを抱えているという皮肉な状況なのだ。結果的に、この子供たちは、傷を負った上に深い孤独に苛まれることになる。

身に覚えは、ないですか?

私たちは、自らの内界に在る孤児を認めなくてはなりません。自分自身からも遺棄されたままにしておいてはなりません。
私たち自身が自らの孤児をケアしないままにしておくと、孤児の否定的な側面が強くなっていきます。
世の中・他人・自分自身を冷笑し、胸に空いた穴を埋めるための消費行動に走り、物質的な満足を得ることで自分の人生をコントロールしているような錯覚を起こします。
無意識に他者から疎まれ避けられるような言動を繰り返し、あるいは硬く回りに壁を張り巡らして自身を守ろうとすることで、親しくあたたかな交わりを拒絶します。
傷を癒すには、ときに、さらなる傷を覚悟することも必要です。

完璧な世界で慈しまれることで、幼子は信じる力を育みました。
見捨てられ虐げられて覚醒した孤児は、自立を覚え、同じような境遇の仲間たちと支え合うことによって、自分の世界を築く方向へと向かいます。
私たちの自立、本当の意味での共栄共存の関係は、孤児が教えてくれます。

自分自身を守ろうとするとき、その役目を担うのは、孤児ではありません。
自我の砦としての役割を担うのは、12のアーキタイプの3番目としてご紹介する『戦士』です。