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誰の役にも立たなくても私に役立つ生きる意味を見つけた

なんのために生きるのだろう? 特に思春期には、ちらっとでも考えることの多い疑問かもしれない。考える人が、たぶん、多いにもかかわらず揶揄を含んで「哲学的な」と言われるものでもある。そんなこと考えたって、なんの役にも立たない、ってね。
自分の生きる意味を見つけたところで、他の人の役には立たないかもしれない。けれど、でもね、私にはとても役に立ったんだよね。

fire-of-life

意味を見つけるでも意味はないと思うでもラクになるなら

なんのために、生きるのか? 私は「いったいなんだってこんな苦しい思いをしてまで生きなくては“ならない”のか?」と、考え続けてきた。
人の脳は意味を見つけたがる。
一時期は、やけくそもあったかな「生きることに意味なんてない」と思った。そのときは、それで楽になれた。だって、意味がなくてもいいんだってことだから。
こうも言ったな「生きる意味なんて、自分で決めるものだよ」。

生きることに意味はない。それも一つの解だと思う。なくてもいいんだよ、意味なんて。
自分で決めてもいいんだと思う。なんでもいい。それで生きていられるなら。

ところが今年、私はついに、意味を見つけた。
疑問を持ったのがいつだったか正確には覚えていないけれど、生まれてから見つけるまで45年かかったよ。
もうちょっと正確に言えば、生きる意味を見つけたというより、私は自分の使命を見つけた。

見つけたのは命の使い方

使命と天命は、違うものだと思う。
使命とは、字の通り、自分の命を使うものだ。つまり「これのためになら、命を使ってもいい!」そう思えるものが、自分の使命なのだと思う。

命を使う、なんていうと、つらそうだし大変そうだし、よっぽどのこと… なんてかんじがする。

そうだね、よっぽどのことかもしれない。
世のため人のためになるものだけが、世界を救うようなことだけが、使命なのではないと思う。だって「これになら自分の命を使える!」と盛り上がるのは、しょせん自分なのだから。

「このブログ、NyanChest は、私の使命です。」
ほらね? たいしたことに聞こえない。
それでも、私はこのブログをやっていくために命を使えると思ってる。
なぜか? わからないんだな、これが。
どうやって? それもわからない。
なのにどうして、このブログが使命だと言えるのか? 言うだけなら何だって、ってことではなくて、頭の理解ではなく心からの理解でどどーんとつき上がった。

あれは、生まれて初めての体験だった。
命って燃えるのだと、小説などではよく目にしていたけれど、比喩じゃなかった。
自分に、これほどの生命力があるのかと驚くほどのパワーだった。
あえて言うなら、燃えるような怒りに似たかんじ。怒りよりももっともっと強く、激しいと言うよりは豊かで、尽きもせぬようにかんじるエネルギーだった。
涙が止まらなくなったよ。
私は確かにここに在るのだと、今までのすべてがこれのためだったのだと、理解でき納得できた。
これが使命なのだと。確かに私は自分の命を使えるし使っていきたいと思えた。体の奥の奥からこみあげ、わきあがり、こんこんと湧いてきた。

今でも、NyanChest を想うとき、わいてくる。あの時ほどの勢いはないけれど、日頃活動的でもなく体力もない私にしてはどうしちゃっのかと思うほどの強さがある。
しばし更新せずいると、帯電してるかのように落ち着かなくなってくる。

たいしたことをしていないのに。誰のためでもなく、自分が好きなことを好きなように都合よくしているだけなのに。
それでも、これは私の使命なのだと言い切れる。

実は、ブログという手段でなくともいいのも、わかっている。
なにか、コアがあって、そこから外れなければ、他のものだっていい。

使命は天命とつながっていて自己実現する

使命は、サイコシンセシスで言うなら、セルフのものなのだと思う。
天命は、トランスパーソナルセルフのもの。
どう違うのか?セルフは、トランスパーソナルセルフのかすかな投影と云われていて、現実レベルの、肉体をもつ私に宿る。
トランスパーソナルセルフは、文字通り、私を越えたところの存在。
なんだろ?日本語で言うなら、セルフは個人の魂で、トランスパーソナルセルフは個人についてる守り神みたいなイメージかな。

セルフには意志がある。と、いう言い方をすると、サイコシンセシス的に正しくない。意志はセルフの機能、とされているから。
セルフは意志を用い、サブパーソナリティを統合し、自己実現へと向かう。
自己実現は、パーソナルセルフの段階と、トランスパーソナルセルフの段階とにあると云われている。

サイコシンセシスの考え方は、いつかそのうち説明ができるときにするつもり。
今ここで私に言えるのは、NyanChest は、私のパーソナルセルフが自己実現へ向かう手段であって、トランスパーソナルセルフの自己実現とも結びついていること。

なにを根拠に? 現実的にこれと言うことのできる根拠はない。
あれやそれやのタイミングやら、私自身の体で感じられるかんじやら、そういったごく個人的ないくつものいろいろを言い出してもきりがないし、そうやって誰かに納得してもらおうとする必要も、私にはない。だって、私が見つけたのは、私自身の生きる意味だから。
私が、そう感じ、私が、そう信じる。ただそれだけ。

続けることができる

私は生きることができる。積極的に、意思をもって生きることができる。

生きているのなら、誰の役に立たなくったっていいのだと思う。誰の役にも立っていないと思うのは私で、私の知らないところで誰かの役に立ってるかもしれないしね。誰が何をどう言おうとも、誰にとっても必要のないものなんて、この世の中にはないんだよ。

毎日をただ生きて、悩み苦しんで、その果てに見つけた命の使い方は、私自身を積極的に生かしてくれるものだった。
「いつ死んでもかまわない。だって後悔のないように生きてきたから」そう言っていた私が、「今は死ねない。NyanChestもっと育てなきゃ!」なんて言うようになった。驚きだ。

自己実現は、これで終わりということがなくて、さらなる自己実現がある。
これからどうなっていくのだろう? それも、このブログを続けていくことで見えてくる。
根拠がまったくないのだけれどね、私は自分を信じられる。