サブパーソナリティ3|困ったちゃんたちの本当の姿

2016.12.8

サイコシンセシス(統合心理学)における、サブパーソナリティとは何かをご紹介しています。私の内側にいるたくさんの私 では、人間はさまざまな要素からなっており、人の心にもまた たくさんのサブパーソナリティという要素があること。生き延びるために生まれたもの では、それらはどうやって生まれるかをお話ししてきました。
今回は、もっとよく理解していただくために、その本質をご紹介します。

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サブパーソナリティの極端さという面

自分としては困ると思うようなサブパーソナリティがいても、その存在そのものが問題なのではない、どんなサブパーソナリティも存在意義や役割を持っている、また可能性を秘めている(以下略)

平松園枝『サイコシンセシス』とは何か』

サブパーソナリティ2 でその生まれに触れたように、彼からはどれも、その存在が必要だから在るのです。例として、親に見捨てられないようにと生まれた“良い子”サブパーソナリティを紹介しました。
「良い子」は、親の言いつけを守ろうとする子です。親の言うことというのは、子供のためを思ってが多いですね。危険な目に遭わないように、他者に迷惑をかけず可愛がってもらえるように、将来困らないように… しかし、小さな家庭の中でしか通用しないルールもあります。また、子供が大人になってからは、人から言われたことだけでなく、自分自身で考え判断しなければならないようなことも多くあります。
サブパーソナリティは、ある部分では「アタマが固い」ところがあります。言われたことを死守しようとするのです。つまり「これ以外はダメなこと」と、信じてしまう傾向にあります。

  • 一度言ったことは、必ず実現しなければならない。
  • 約束は、何があっても守らなければならない。
  • 時間には、決して遅れてはならない。

サブパーソナリティレベルでは、このようなことが起こっています。「必ず」「何があっても」「決して」、このように極端で、ガチガチに固くなりがちです。
さて、自分の“固さ”に困っているという方もいらっしゃいます。引用には『可能性を秘めている』とありますね。“良い子”サブパーソナリティは、どんな可能性を秘めているでしょうか?

本来の可能性を探る

私たちの精神の内容はすべて下位のレベルで表現される可能性があります(文字通り「高い状態から降格する」のです)。(中略)意識内容は高められ得るのです。自己憐憫は共感に、などです。

P.フェルッチ『内なる可能性』

例えば“良い子”サブパーソナリティは、アタマが固くおもしろみのない人物として表れるかもしれません。
皆が盛り上がってるのに、一緒に楽しめない。何かおもしろいことを言おうとして、逆に場が盛り下がるような発言をしてしまう。こういったことで「自分はコミュニケーション障害だ」と、思っている方もいます。
これ、サブパーソナリティレベルだとおわかりいただけますか? 自分=コミュ障、と断定するかんじが、極端ではありませんか? サブパーソナリティの特徴です。
サブパーソナリティは下位のレベル(別ページの図を参照してください)、つまり否定的な形で表に現れることがあります。“良い子”サブパーソナリティが、おもしろみのない人物として現れてしまうようなことです。
しかし、皆と一緒に楽しめないからといって、“良い子”の部分が問題なのではありません。

(前略)サブ・パーソナリティを理解する上で一般的変容が行われる必要があります。彼らの外見だけを見ないで━━そのレベルでは真の統一は不可能です━━彼らは、より高い資質としての元型が下位レベルで表現されたものだととらえることを、私たちは学ばなくてはならないのです。

P.フェルッチ『内なる可能性』

“良い子”サブパーソナリティの表面に表れている“固さ”にのみ目をとめるのではなく、その本質を理解する必要があります。
ここでは簡単に、言葉の言い換えを使ってみましょう。“良い子”から連想される事柄、と思っていただいてもいいです。

  • まじめ
  • きちんとしている
  • 礼儀正しい
  • 頑張り屋
  • 努力家
  • 信頼できる

どうでしょうか? こうして“良い子”から連想される事柄を並べてみると、ずいぶん印象が変わってきませんか?
高いレベルでの“良い子”は、“誠実”さの表れと捉えてもいいのではないでしょうか。

もしこのようなダイナミックな概念を心に留めておくなら、サブ・パーソナリティはもはや無意味なパターンの束には見えないはずです。逆に彼らの持つ隠れた可能性が見えてくるでしょう。サブ・パーソナリティはその源からどんなに遠く離れていても、私たちをその源に結びつける手段になるはずです。

P.フェルッチ『内なる可能性』

高いレベルにあるときの姿は、誰でもが「善い」「美しい」と感じるものとなります。サブパーソナリティの本来の姿は、善であり美であり愛なのです。
欠点や問題点、困った部分だと思っているようなサブパーソナリティでも、今現在、低いレベルで自己表現しているだけです。
私個人は「その部分はまだ成長していないだけ」と、イメージするのを好みます。どんなに困ったサブパーソナリティでも、人間の子どものように、成長し、立派な(本来の)姿になる可能性を秘めています。
必要なのは、彼らをより高いレベルの、本来の姿で表現させてあげること。高いレベルで表現されたサブパーソナリティは、長所となり、“私を助けてくれるもの”となります。

さいごに

どんなに困る部分、自分の欠点だと思っているような部分も、長所となり、自分自身を助けてくれるものになり得ます。なぜならば、それらの本質は善であり美であり愛だからです。ただ、それらは下位の姿で自己主張してしまっていて、まるでまだ未発達な子どものように振舞っているので、自分自身の困った部分となってしまっているのです。
さて、では、それらの部分が本来の姿を表すにはどうしたらいいのか? 成長して立派な姿になってもらうには、どんなことが必要なのか? また別の機会にご紹介します。