自己評価が低いのは、自己批判が強いからなんじゃないかな?

「自己評価が低い」と言う人を知ると、低い評価を自分に冠する名付けのしかたに、問題があるんだろうなぁと思う。
本当はそこまで低くないのに、低くしちゃってるのね、というふうに想うから。

一般的な使われ方としての「自己評価が低い」には、「だから自分はダメなんだ」のニュアンスを含むように感じる。


こんなイメージはどうだろう?
「ジコヒョウカ」って、魔法の呪文があるとする。
嫌な気持ちとともに、アレヤコレヤ記憶が蘇り「うぉぉぉぉぉー」って、それを唱えた人を弱らせる呪文。
間違った名付け、とは、そんなかんじ。


残念だけれど、本人が「自分はダメだ」と思っている、その“気持ち”と、言葉の“使われ方”がバラバラだなぁと思う。

厳しいことを言うんだけれど…
“自己”という、自分全体を見渡すことができる人は、自己評価を低くなんてしないと思う。
人には必ず、いいところもある。
何かを美しいと感じたことはあるでしょ? 誰かを「いい人だな」と思ったことはあるでしょ? それ、あなたが持ってる、善いものを感じ取る能力、感性なんだよ。それって、いいところに入らないの?
そういう、いわば小さいところから、評価のつけ方を間違ってしまってる可能性は、あるね。善いものをカウントしていない、という意味で。さらには、悪い(と本人が感じている)部分のみをクローズアップしている、という意味で。

“自己”という言葉は、その人の全体を指す。
なにかの行動、ある条件でのモノの考え方、そんな部分を指して使う言葉ではない。


自己評価の低さに苦しんでいる人は多い。

自己評価については、私の知る限り、はっきりとしたメカニズムがわかっていない。
同じような条件下であっても、ある人はとても低く自分を評価し、別のある人は気にしていない。
その人の認知(解釈の仕方・考え方)しだいで、━━乱暴な言い方をするならば━━どうにでもなるという、摩訶不思議なものだとも言える。

自己評価が高ければいいのか? 苦しまないで済むのか?
そんなこともないようだ。
…いつか、まとめてみよう。

自己を評価するのには、バランス感覚が必要とされる。
事実を事実として認める、心の体力も必要とされる。
適切に、自分自身を見ることができ、個々の要素を判断し、全体として評価することができるなら「自己評価が低い」とは、言わないんじゃないかと思う。
自己を適切に評価させないのが、「自己評価」という魔法の呪文。


自己評価には、常に更新する性質があるようで、他者からのスロトーク━━よりよくあるために「ストローク」という考え方 参照━━も、多いに関わってくる。
昨今、私はよく見かける“承認欲求”という言葉。これにも、自己評価は関わってるんだろうなぁと、ぼんやり考える。
承認欲求を満たすのが目的のばあいもあるだろうけれど、本当に得たいのは“自己肯定感”ではないのだろうか?
自己肯定感は、自己評価に大いに関わっている。


たいていの人の言う「自分は自己評価が低い」は、正確に言うならば「自分には“自己批判”の強い傾向がある」なんだと思う。
自己批判が強いと、ダメなところばかりがクローズアップされ、結果として全体の評価を下げるという仕組みがある。ダメなとこばっかり見てたら、自分をフェアに評価できなくなってもしようがないよね。

自己評価の低さに苦しんでいるなら、それを手放したいのなら、私は認知行動療法をお勧めしたい。
でも、自己評価を低くすることで、その人は得ているものがある。それを想うと、無理に勧める気はない。
あなたが必要とするソレを、もっとラクで楽しい方法で得るやり方は、他にあるはずだって気づいて欲しいなぁと願うばかりだ。


提案できることがあるとしたら…
自分のことを「どんな部分を、どんなだからダメだと思っているのか」、要素に分解してみること。
「自己評価」と名前をつけてひとくくりにしてしまってる、その内訳を考えてみること。
やってみると、魔法が解除できるかもしれない。