NoTitle – あるいは – 欠落

2023.4.3

うんとうんと傷ついてきた人が好きだ。

…傷ついてきた人、と言うのに、ためらいがあった。
たぶん私の好きなのは、元々生まれつき傷ついている人なのだと思う。ああそうだ。生まれつき傷ついてる人。

“現実に”、生まれつき傷ついてる人なんて、いるのか/いないのかわからない。ここで私が言うのはおそらく、イメージ。感じるものを言葉にしただけ。

どうしようもない傷、あるいは欠落。欠けた部分のある人が好きなんだ。
それがいつついた傷なのか。どうして欠落してしまったのか、欠けてしまったのか。そういったことはどうでもよくて。どうでもいいというよりも、想ってみれば生まれつき元々そうだったのじゃないかと感じられるような。
気がついたら、無かった。もうとっくに失われていた。
失われるというのはかつて少なくとも一度はあったということで、ならば失われていたというよりもたぶん元々あったことなど無いのだ。一度も。
元々無かった、そう思ったらとてもしっくりして「ああそうか」と納得できるような欠落。

一度も、あったことなどなかった。元々、無かった。
   …なんてひどい
ゆえに、私たちは絶望したのではなかった?

年齢ではなく未熟さという意味で“若い時”、誰かから愛されればそれが得られると、欠落は埋まり傷は癒され満ちたりて、幸せになれるんだと信じる。
まだ誰ともつきあったことがなくて、恋人をもったことがなくて、あこがれる。恋に、というよりも、その向こうにある欠落が埋まるんだという期待に。

今考えれば、不思議でしかたない。
なぜ、そんなことを信じるのか。なぜそんなことを信じたのだろう。なぜそんなことを信じるようになったのだろう。なぜ?
思い出せない。

改めて考えてみれば、あれは希望だったのじゃなくて? 神にすがるような、宗教のような信仰のような、最後のよりどころだったのじゃ?
それとも私たちは、なにかにだまされていたのか

ねぇ
ねぇ 私たちの欠落は、そんなんじゃ埋まらないんだよ

恋人をえてしばらくは、とても幸せそうにしている人。欠落が埋まったかのように。
…たぶん本当に埋まる人もいるのだろう。
だけど、恋人は変わらずいるのに、欠落が埋まっていないと気づいてしまう人がいる。

私が好きなのはそうした、けして、けして埋まらない欠落を抱えた人。

ふたりでいてもさびしい。それはもう絶望なんだよね。独りでいるよりも、ひどくひどくさびしい。知ってしまって、知らないでいたかったと思うのだ。

外に、自分以外の者に、誰かに、欠落を埋めるよう求めている限りは埋まらないのよ。へたをしたら、より深く大きくなってしまうだけ。

私たちの欠落は、私たち自らが内側から満たすためにある。それを愛というの。自分自身への愛。

サイコシンセシスのセルフを理解していれば、この感覚はわかりやすいと思う。そうでないのを、サイコシンセシスの用語を使わずに説明しようとすれば、魂の話しをしなくちゃならない。
…もう少し前には、努力してたのよ。「魂」をどうにかして別のもので説明しようと。努力してみても結局無理だと、あきらめた。それよりも適切に・ぴったりだと感じられる言い方を見つけられなかった。

誰でも誰かと一緒になりたい。

一緒になるというのは、結婚という意味ではなくて。同じ家で暮らすなどの以上の意味。たとえば、ともにいるのが当たり前すぎて相手と出会わずいた年月をどうしていたのか不思議に感じるような。
誰にでも、そういう相手はいるのだと思う。出会えるかどうかの問題はあるにしても。

だけれど、埋められない欠損を抱えた人は、そんな相手と出会ってもなお独りなんだ。

救われないとも言える。一方で、相手に出会えずとも自らの内側から満たすことさえできれば救われてしまうとも言える。
そうなの。私たちは、独りでいられるのだ。

私たちが救われるためには、自分自身の魂とつながるほかないのだ。他の誰も、もし相手が望んでくれたとしても、何もできることがない。
厳しい生だろうか? そうとも言えるけれど、嘘偽りがないとも言えるよね。

これはもう選びようのないものだ。

生まれつき傷ついている人が好きだ。埋められない欠落を抱えた人が。
めったにないことだけれど見つける彼らには、独特の静けさがある。誰もいない教会のような。

つれづれ言葉,気持ち

Posted by nao