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抱きしめて

2016.9.13

パパは、神様だった…

一般に、女の子は母親と仲がいいのだと聞く。私は、母と殺しあった。精神的に。それでもいられたのは、父がいたからだ。
思春期、私たちはよくドライブをした。真夜中のドライブ、と、私は呼んでいた。母の前で話したくないこと、母には聞かれたくないことを、父に話すため。
母親不在。受け止め、抱きしめてくれる役割としての母親は、私にはいなかった。

父は、なんでも聞いてくれた。私がひと段落するまで、黙って聞いていてくれた。私が黙ると「お前さんと俺とは、性別も歳も違うけれど…」と、前置きした上で、いくつかの考え方を提示してくれた。
「なんでも話しなさい。子供が親に話しをするためには、親の方も、子供が話しやすくする必要がある」明言していた父。
私は、その通りにしていた。なんでも、話せば、許されるのだと思っていた。話せることなら、何をしてもいいと。

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子供にとって、親は神様だ。神様の言うことは絶対だし、正しい。守らなければならない。
神様に愛されるために、神様の課題をこなしていかなくてはならない。
最初の子。私は女で、下には弟がいるけれど、最初の子だ。一般に、最初の子には、親の期待がかかるという。私もそうだった。
母が後年「娘の教育は、俺がするから、お前は黙っていろ」と、父が言ったのだと話していた。
一身に受ける、神様の寵愛。
「お前には失望した」そう言われた、あの日まで。

学生時代の友人が、よく家出をしたと言っていた。親を試すために。探すかどうか、確認するためにマンションの上階から見ていたと。
それを聞いて、私には無理だと思った。家出なんてしたら、親は探しになんて来てくれないと信じていた。

家族の抱える、問題。私は一番の問題児だった。自覚は、まるでなかったけど。警察にお世話になるわけでも、家庭内暴力を起こすわけでもなかった。ただ、夜、新宿で遊んでただけ。それにしたって、おとなしいものだった。
家族は崩壊寸前だと、父は対処しにかかった。母と話し、弟と話し、そして私に。「もう落ち着いたかなと、ちょっと目を離すと、お前は問題を起こす。俺にだって仕事もあるし、お前にだけかかりっきりとはいかないんだよ」

幼い頃から「考えなさい」と言われてきた。自分で考えなさいと。
父は、私の話を聞いてくれた。そして、いくつもの可能性を提示してくれた。でも…
「パパ、私は子供だったんだよ? 子供には、選べないよ。私が欲しかったのは、正解の答えだったんだよ」
父が望むことをしたかった。父が望む通りになりたかった。だけど、無理だった。

子供の健全な心の発達のイニシエーションとして、親殺しはある。意識されないばあいもあるし、親を殺す夢を見るという形で経験することもある。私のばあいは、20代後半での、本人との直接対決だった。
「パパ、恨んでるよ」ファミレスで、目の前に座る父に言った。「私は女で、パパが望むほど、強くなれないんだよ」
父は、はっきりと「ごめんなさい」と言った。「お前がそれほど繊細だと気づかなかった。ごめんなさい」
驚いた。そして、自分の子供に謝れる父を、誇りに思った。人として、すごい、と。

父は、私を壊した。わざと壊したのだと話してくれた。自我ができてきたかなぁと思う頃に、わざと壊して、より強く育つようにしたのだと。
私は、父が求めるほどに強くなかった。30になる前に、病院へ行くように言われた。自律神経失調症だから、自分で探して病院へ行けと。電話帳を渡されたけど、どこへ行ったらいいのかわからなかった。精神科と心療内科と…あの当時、インターネットなんてなかったから。
父の言った、自律神経失調症だったのかどうか、今となってはわからない。そのまま、それ以上なにを言われることなく、時は過ぎた。私が家を出たから。

丸1年、親たちと会わなかった。連絡もしなかった。
「結婚前の子供が家を出で行くのは、親がどんな気持ちになるか、わかるか? 帰ってくるな」と、父は言った。
寵愛を失っただけでなく、私は自分で神様を殺した。父は、ただの人間で、親でしかなかった。
私は自分自身の基盤となる、揺るぎないものを築くこともできず、より所も持っていなかった。

抱きしめられる。ただ、それだけのことが、私には欠落していた。
抱きしめてもらう、それは、無条件の存在の肯定。自分がここに存在していていいのだという、許し。
自分がこんなふうに育ったから、思う。お母さんが抱きしめてくれた記憶があれば、基本的な、そして絶対的な部分で、人は安心して生きられるんじゃないかと。
私には、母に抱きしめられた記憶がない。

家を出てから、いろんなことがあったけれど、親と物理的な距離ができたことが良い方向へ働いた。お互いに、いい時にしか顔をあわせないで済んだ。
母との仲も良くなっていった。母に、母親を求めるのをやめて、一人の女性として見るようになって。愛情がないわけではなく、愛情の示し方を知らない人なのだと知った。
父との仲も、依存ではない形へと変わった。「恨んだけどね、感謝もしてるよ。私に考えることを教えてくれたのは、パパだから」そう伝えた。

たくさん、たくさん、考えた。考えないでは、生きられなかった。
揺るぎないものを持たない私は、いつも何かしら、自分を支えるための理由を探していたのかもしれない。
父は、私を壊しもしたけれど、築き直す術を与えてもくれていたんだと思う。