最近よく見ていただいてるページはこちら

  1. Skyrim SE PC版のおもしろさ!MODでニューゲーム始めると…|Alternate Start – Live Another Life
  2. httpsなのに緑鍵にならない原因と対処の記録|ブログを独自SSLに【後編】
  3. プラグインでここまでできた!Shortcodes Ultimate (例2)目を引く著者情報を作成
  4. 雨の日に聴きたい14曲|洋楽バージョン
  5. 代表的なツールとしての『自動思考記録表』|認知行動療法4

ホームはここに

以前、ホームはどこ? を書いた。
突然思い出し、最後の言葉は、私自身へのメッセージでもあったのだなと気づいた。20年ほどの時を越えて。

ホームとは、必ずしも物理的・空間的な場所を指さない。
ホームとは、当人がくつろぐことのできるもの。ここに居ていいのだと感じ、こここそが自分の場所だと感じることのできるもの。

ホームとは、私の言葉では「居場所」。
ある・ないは、重要なことだと思っている。
自分がずっと、40に近くなるまで、ないと感じていたものだから。求め続け、探し続けたものだから。

いつの間にか得ていた、居場所。私はどう得たのだろうか?
振り返ってみれば、めぐりあわせの幸運もあった。自発的な努力もあった。

これまで、どんなことをしてきたろうか?
過去は、常に現在にある。ここからスタートするのがいいだろう。

今現在でも心がけているのは、私が私であること。

私である、とはどういうことか? 自分らしいと感じられる自分であること。
今だから、自分らしさを感じることもできるけれど、以前は自分らしいとはどういうことかもわからなかった。
自分らしさとは、私が好きだと感じるものでできている。以前は、好きななものを好きと感じることもできなかった。

私が居場所を得るためには、自分が何者であるかを見つける必要があった。
こうして、私はヒーローズ・ジャーニーという旅をすることになったんだ。

ヒーローズ・ジャーニーは、欠損から始まる旅。渇望から始まる旅。

子どもだった私は「いい子」だった。
学校の先生が信頼する、同級生の親たちが「あの子と一緒なら安心」する、よい子。

はたして、あれは、私だったのだろうか?

親のいうことをきく、よい子。
赤ん坊だったときでさえ、母いわく「この子はまったく手がかからなかった」らしい。
大げさに言ったのだとは思う。けれど、そう言えるほどには、いい子だったのだろう。

それが、私? 本当に?

思春期には、多くの人が持つであろう疑問「私は何者であるか? 私とは何か?」を求め始めた。
友人は「小さい頃にいい子だった子は、大人になってから問題を起こすんだって」と言っていた。
その通りかもしれない。
親が知ったらどうなるかわからないようなことも、した。
平気で、いやむしろ故意に人を傷つけ、嘲った。

反動と言うには、あまりにもひどい。
けれど、後悔はしていないの。
私には、わかっていた。それらが悪いことだとわかっていた。だから、やった。

言い訳をするつもりもなく、ただ私には必要だった。

人を傷つければ、自分を傷つける。
これをうまく説明することができないのだけれど、本当のこと。

私はバランスを失い、おかしくなっていった。

カウンセリングを受け、自分自身を見出していく道は、本当につらいものだった。
なぜ、あんなにつらかったのだろう? 事実を事実と認めることは、なぜあれほどまでにつらいのか。
この頃、ようやくわかり始めている。

自分を受け入れるとは、事実を事実と認めること。
これがつらいのは、自分でない自分を長くやってきてしまっていたから。
私が私だと思っていたよい子も、その影とも言えるひどいヤツも、どちらも私。
さらにさまざまな私がいた。
全部わかっているはずだったのに。全部コントロールしていたはずだったのに。

世界が壊れるとき、どんな痛みか、知ってる?
閉じ込めていたものが解放されるとき、どんな衝撃か、知ってる?

私が私だと思っていたもの、これが現実だと思っていたもの、それらのすべてが、まがいものだったと知った。
世界が壊れることで、私は新しく自分自身を創造することができた。

考えずとも感じる。それが本来の私。

新しく生まれるでもない。
私の中から、本来の私は現れ出でた。
まるでサナギから孵る蝶のように。

あらねばならないと信じていたものを、やめた。
かんたんなことではなかった。信じていたんだもの。
これまで築いてきたものを手放そうとするとき、私は私に問いかけた。「それでも自分を信じられるか?」
信じられると、答えることができた。

私は、ずっと私だった。

表に出てくることができなかっただけ。
表の私がもがき、苦しみ、なんとか死なないようにやっている間、私は育まれた。表に出ても耐えられるよう強く。現実に体をもって生きられるほど強くなるまで、守ってもらっていた。
いつの間にか、強くなっていた私があった。
私が生きると決めたとき、私は表に出たのかもしれない。

ラクになった。
隠さなくても、偽らなくても、よくなった。
私は私でいられるようになった。

自分を隠す。そのつもりなくとも。
たとえば本心を口にすることがない・できないとか、誰かにあわせるような言動をとっていたら、いつまでたっても自分の居場所はみつからない。
誰かのための場所を提供するために尽力していることになる。しかも、偽りで作り出したまがいものの場所を。

本心を、自分の考えや気持ちを素直に表現すると、ときに孤独に追いやられる。同意、賛成、支持、共感してくれる人ばかりではないものね。
「あなたがそんな人だとは思わなかった」偽りの自分を生きるのが長ければながいほどに、周りは驚くだろう。

私は生きると決めた。それは、きちんと死ぬことを覚悟したとも言える。
生きているからではなく、意志をもって生きる、そう決めてから、私には居場所ができた。
自分自身という居場所が。

他者に排除されたか? 恐れや不安が作り出した想像は、実現しなかった。
私は私として尊重してもらえていると、感じられる。
私が私でいることで、はっきりと私を好んでくれる人、味方してくれる人が現れた。
かつてあれほどに望んだものは、私自身でいることで得ることのできるものだったのか。

この私でいるとき、私は最もくつろぐことができる。これでいいのだと感じ、これこそが私だと感じる。自由を感じ、生きていると感じる。

ヒーローズ・ジェーニーとは、行って帰りし物語。

居場所は、用意してもらえるものだと思っていた。だから、どこかにあるのだと思っていた。ここではない、どこかに。だから還りたいと思っていた。
居場所は、用意なんてされていないのかもしれない。
少なくとも、私が見つけた居場所は、ここにあった。

こんな言い方もできるかもしれない。
居場所は、自分自身に還ったところにある、と。