身を捧げる情熱をもたらし変容へと誘う『求愛者』|『英雄の旅』の12のアーキタイプ:7
自我の形成には、12のアーキタイプの最初の4つ『幼子』『孤児』『戦士』『援助者』が、かかわっていました。
続いて、自己を創出するのにチカラを貸してくれる『探求者』と『破壊者』をご紹介しました。
ここでは、自己にかかわるアーキタイプとしては3つ目の『求愛者』をご紹介します。
このページでの引用は、特別な記述のない限りすべてキャロル・S・ピアソンの『英雄の旅』よりの抜粋となります。
はじめに
ピアソンの著書『英雄の旅』からの抜粋とともに、12のアーキタイプを紹介しているのですが、求愛者の項、本文には『求愛者』の文字がありません。なんども繰り返される単語は“エロス”です。
このことから、求愛者=エロスの象徴 または エロスをもたらすもの と捉えていいのではないかと考えます。
心理学用語としての“エロス”について、かんたんに触れておきます。
“エロス” は “生”、対比して“死” を “タナトス” と、どこかで見聞きしたことのある方も多いかと思います。心理学用語として最初に使ったのは、フロイトのようです。
私個人は、フロイトの精神分析を学んでいません。なので、本来の意味・用いられ方などを解説することができません。
ピアソンの著書より、以下の引用部分から、ここで扱う“エロス”についての意味合いを限定することにします。
肉欲とは肉体だけに関わる事柄だ。エロスとは、魂と肉体が調和した時に生まれる情熱なのだ。
エロスは、社会的地位や組織での権威から得られるものとは別の、その人自身のパワーの源泉でもある。それは他人に行使するパワーではなく、自分の内側から湧いてくるものだ。(中略)それは、人生に魂を注ぎ込んでいる人間のパワーであり、核となる自分の姿に忠実に生きることを恐れない人間のパワーでもある。なぜなら、エロスは魂から直接もたらされるものだからだ。
ここで扱う“エロス”とは、肉体を持つ私たちに固有の形で現れる、生命エネルギーの一種と私は解釈しています。
求愛者との出会い
たまたま耳にした音楽に、深く心を揺さぶられたことはないですか?
ある仕事にとりかかるのに「よし!やってやる」みたいなエネルギーが湧くのを感じたことはないですか?
旅先で見た風景になぜだか涙が流れたり、趣味の一つに時間も忘れ没頭してそれでも疲れておらずむしろ元気!なんて経験はないですか?
求愛者の覚醒を促す呼び声は、日常生活のこんなシーンで体験されています。
エロスに影響されている状態で選択されたものは、私たちの本能の声が選んだものだ。
人のみならず、対象が物であったりもしますが、私たちは恋に落ちます。出会った瞬間にときめきを感じたり、心臓がどきんとしたり。理由はいくらでも思いつくかもしれない。けれど、どれもがぴったりの唯一ではない。ギリシャ・ローマ神話のキューピッドがそうであると描かれるように、エロスには分別が足りません。出会ってしまった後でそれを失うことを考えたりすれば、耐えがたいほどの痛みをおぼえるでしょう。私とその人、あるいはその物は、わかちがたく結びついてしまっているのを感じるでしょう。
恋をして、心が激しく揺れ動いたり、繊細に感じやすくなったりという体験をした方もあるでしょう。しんどい、つらい、と思うほどに。
中世の騎士は、仕える貴婦人に情熱を捧げたといいます。決して手は届かない。しかしチラとでも視線を受けたい、その指先にでも触れたい、捧げた心を拒まれでもしたら絶望のあまり死ぬだろう… 情熱的な恋です。
対象を求め、対象のためならば身を捧げ尽くす情熱をもった人。求愛者の一つのイメージモデルです。
実在した伝説の人物で挙げるなら、神への愛に生きたマザー・テレサやジャンヌ・ダルク、科学に打ち込んだキュリー夫人や野口英世、美を追求し続けた画家や詩人も数えあげればキリがありません。
英語の passion には宗教的信仰の情熱の意味あいもあるようですが、なにかに身を捧げた人たちには、熱狂的な信仰と似たかんじを私は感じます。
ここで注目していただきたいのは、偉人たちがなぜ偉人であったのか? 自らの信じる道をひたすらに歩んだ結果、たくさんの人を救ったり、たくさんの人の心を動かすような、極論すれば世の中の「ためになった」からですね。エロスがもたらすものの中に、多くの人をつなげたり結びつきを作るという側面があります。
ごく最近では、私はTwitterで知ったのですが、リアルライフ・ヒーローとして活動する人たちがいます。好きなことで、できることを、使命と情熱をもって行っている彼ら。誰のために行っているわけでもないのに、輪を広げ、影響を拡大していく彼らに、私個人は求愛者が活性化しているのを感じます。
求愛者の特徴
エロスが息づく対象がなんであろうと、出会ってしまったなら、私たちはそれに抗うことは難しくなります。
私たちがアタマで選んだものでなく、どうしようもなく心惹かれ、とりつかれでもしたかのように感じます。出会ってからは、日々がガラリと変わってしまうばあいもあるでしょう。
性愛や恋愛、仕事への愛、正義への愛、人類への愛、神への愛━━形はさまざまでも、愛の訪れが「結びつきを絶たれた暮らしを変えなさい」という魂の呼びかけであることに変わりはない。それは、冷笑主義と縁を切って信じる力を取り戻すように求めてくる。(中略)魂を失ってしまうのが怖くて、それまでの暮らしを続けることはできなくなるはずだ。しかも、その事実に気づいた瞬間は、それまでの人間味のない暮らしを恥じる思いや罪の意識に苛まれるだろう。(中略)新しい人間関係や仕事に踏みこんでいく人は、まさに再生を果たした気分を味わうかもしれない。
比喩でしばしば表現されるように、エロスの情熱は、目に映るもののすべてを色づけます。それまでの日々がモノトーンだったと思えてくるでしょう。
生きいきとした多彩な豊かさを前にして、私たちはモノトーンの日々に戻ることはできません。世界は美しく、エロスの訪れる前、ロボットのように無感覚な自分に戻ることを考えるだけで、恐怖を感じるかもしれません。
心の奥深くの感情と常に連絡を取り合っていれば、ホームレスのそばを通りかかった時にはごく自然に心の痛みを感じるはずだ。夜のテレビニュースで飢えた子供たちの姿をみれば、胸がしめつけられるような気分になる。同僚が不当な扱いを受けているのを見れば、その人の身を案じるようになるだろう。それに、もっと愛されたい、もっと親密で誠実な関係を築きたいと願うこことの声を無視することもできないはずだ。
エロスは、心や身体の感覚を鋭敏にします。肉体的に感覚が鋭敏になるから、エロスなのだと言えるのかもしれません。
過度な刺激━━それが良い・善いものであったとしても━━は、心身に負担になります。肉体に関しては、さまざまにトレーニングする方法がありますし、それぞれにしてきてもいるかもしれません。心のばあいは、どうでしょうか?
エロスは否応なく、私たちの心を鍛えようとする側面もあるように思います。
激しい情熱を収容するには強烈なアイデンティティが必要だ。
愛には、古今東西の歌に歌われているように、私たちを深く深く傷つけるチカラがあります。愛する人の裏切りを経験したことのない人はいないのかもしれませんね。あまりにも深く傷ついてしまったがゆえに、愛の対象のみならず、人間というものを恐れ、愛することはおろか信じることさえもできなくなる。
もし、そうなったばあいには、孤児に戻って課題をやり直さなければならないのかもしれません。あるいは、本物のエロスではなく愛の幻想に溺れただけだったとしたら、幼子がレベルの低い段階に留まっている可能性もあります。愛の対象との境界がうまく引けていなかったという理由ならば、戦士を育てる必要があります。
現実社会、私たちの生きる世界は、ほとんどを自我の4つのアーキタイプだけで作られていると思ってもいいようです。私たちは、多くが自我を形成するアーキタイプに留まっているのはつまり、私たちの自我がじゅうぶんに発達できていないことを意味します。
本物の愛ならば、私たちは痛みを抱える術を会得するでしょう。対象を失うより、受け入れざるをえなく、痛みに耐える術を学ぼうとするでしょう。
ただし、これができるのは、本物の愛のみに対してです。エロスが身の内から生きいきとした情熱を湧き上がらせてくれるから、可能なのです。
チカラを奪われる愛は、愛ではありません。適切に援助者が育っていないと起こりがちですが、決して、不当な扱いに甘んじることでも、虐待に耐えることでもありません。
自我にかかわる4つのアーキタイプがじゅうぶんな発達を遂げていなければ、私たちは大きな間違いを犯すことになります。おまけに、エロスのもたらす激しい情熱というエネルギーを支えることもできません。
求愛者の3つのレベル
レベル1: 至福や愛するものに従う。
レベル2: 愛する物や人との絆を結び、献身的に尽くす。
レベル3: 徹底的な自己受容によって自己の誕生を促し、個人を超越的なものと、個々の人間を集団と、結びつける。
厳しいことをいいますが、自分自身を受け入れることのできない者に、ここで言うような本物の愛はありえません。
他者をただ愛すためには、自由さが必要とされます。満たされない自分を満たそうとするような、欠落しているなにかを補おうとするような愛し方は、相手を利用している側面を持ちます。また相手への執着や束縛を含んだ愛は、支配行為とセットです。
自分自身を愛すことです。そうすれば、愛とはどんなに厳しいものか、どれほどの輝きに満ちたものか、わかるでしょう。愛に飢えた状態でなくなり、自分を愛すことで知った本物の愛し方で、他者を自由に愛すことができるようになるでしょう。
自分を愛すには、自分の存在そのものを丸ごと受け入れる必要がありますね。このプロセスには、自分自身からの許しが与えられる瞬間が含まれます。もしかしたら、アガペーを知るかもしれません。
(前略)すべての人間に━━超越的現実という感覚を持ち合わせていない人間にも━━うぬぼれとはまったくちがう、自分に対する畏敬の気持ちが芽生える時がやってくる。英雄の旅においては、これこそが財宝を見つけるということなのだ。
援助者と求愛者は、愛という共通点によって、似かよって感じられます。
私個人は、対象となるものの違いもあると考えます。援助者は、自分よりも弱いとみなした者を対象としています。求愛者の対象は、自分と同等以上の存在で、必ずしも人間とは限りません。
求愛者の課題
求愛者が目指すのは、愛の対象との一体感であり、一体感から得られる至福と調和の感覚です。愛を失うことや愛の対象との断絶を何より恐れます。
自らが魂のレベルで情熱を感じるものに従うことが、課題となるでしょう。たとえば、先に挙げた偉人たちは他の誰もがやりたがらないことをしました。その生涯は波乱に満ち、貧困とともにありました。私たちの情熱を掻立てる愛の対象は、必ずしも社会的な成功とは結びついていない例でしょう。
私たちは自分の好きなことにやすやすと、献身的に取り組むことができるでしょうか? その方法を見つけなければなりません。
私たちは、愛の力によって輝きを増し、有益な人生を送るために行動するようになる。だが、そうするためには、自分の過去や、それまでの行動様式や考え方に別れを告げ、心を開いて復活を受け入れなくてはならないことがある。
(前略)本物の美で私たちを手招きするものに尽くすことによって、自分の旅に全力で打ち込めるようになる。他の誰かが美しさや価値を見いだすかどうかが問題なのではない。肝心なのは私たち自身がどう感じるかなのだ。私たちはそうやって自分という人間を発見する━━自分を捧げてもいいと思えるほどの愛情を覚えるものによって。
求愛者が活性化し始めても、自我の準備が整っていないと、どうなるでしょうか? 私たちはエロスを否定することも可能です。
エロスの否定は、病気、暴力、嫉妬心、事故や他人の物体化の原因となり、最終的には生命力やエネルギーの喪失を招いてしまう。
ピアソンの著書『英雄の旅』には例が載っています。現代社会の問題としてエロスの抑圧を挙げ、具体的な性の商品化や蔑視などについて語られていますが、ここでは触れるのを避けます。
さいごに
愛に従って生きるためには、すべての愛は━━俗なものであろうと、霊的なものであろうと━━贈り物だという事実を受け入れなくてはならない。(中略)自分の力で誕生させたりその場に止めておくことができるわけではない。
魂のレベルでの愛━━情熱が燃え上がるような━━の対象はもちろん、出会うタイミングも、私たちは意識的にコントロールできません。むしろ、自我のコントロールのチカラなどたやすく奪われ、私たちはパニックを起こすかもしれません。
ヒーローズ・ジャーニーは、必ずしも順当に道を進める旅ではありません。課題がクリアできていなければ、容赦なく何度でも元に戻されます。
やり直すことは、敗北でも恥でもありません。ヒーローズ・ジャーニーは螺旋を描く旅でもあるのです。やり直すたびに、より高く、あるいは深い場所へと到達していることに気づくでしょう。
心の奥深くで物事をとらえ、生きることにまつわる痛みを抱えたまま、人生への献身の気持ちと愛情を忘れずにいれば、(中略)人間の暮らしにつきものの矛盾やパラドクスや苦しみを乗り越えられるようになる。さらには、尽きることのない葛藤や痛みを余すことなく受け止めるという一種の受容を体験することによって、「破壊の力を創造のエネルギーに」変容させることが可能になる。このプロセスを経て、本物の自己が誕生する。
自己を誕生させるのは、旅のクライマックスではあっても、目的そのものではありません。プロセスを通じて見つけた宝を持ち帰らなくてはなりません。
その前にもうひとつ、出会うアーキタイプがあります。『創造者』です。