名前をなくした
名前をなくした。ふいに、気がついたのは、大晦日の夜。
何かで読んだ。人は、周り中に「あなたが○○? 違うでしょ」と否定されると、気が狂うのだと。○○は、その人の名前。
名前は、その人そのもの、個人の存在のよりどころなのだろうか。
名前をなくした。
家にいる生活をしていると、名前で呼ばれる機会がない。
以前見た動画を思い出す。化粧品メーカーだったか?子どもをもつ家庭の、夫が妻に、名前で呼びかける実験。呼びかけられた瞬間の妻たちの顔が、印象に残っている。一瞬の驚きに、一気に花開くぱあっとした明るさ。嬉しく、恥ずかしいといった、反応。
「お母さん」や「ママ」と、役割で呼ばれていた彼女たちが、名前を取り戻した瞬間。
主人は私を「にゃんこ」と呼ぶ。
元々が、人に名前で呼びかけることの苦手な彼。
一緒に暮らし始めて、私の引きこもり期間が1年になろうとする頃だったか、自分が自分の名前を忘れていたことに気づいた。
あのときの感覚は、とても不思議なものだった。改めて、心の中で言ってみた名前は、ひどく馴染みのないものに感じた。
その前だって、これまでも、私は、私の名前を自分だと感じられたことはない。
大晦日に感じた「なくした」は、あのときの「忘れてた」とも違う。
インターネット上で、私はいくつかの名前をもつ。どれもが、私だ。
なのに、本名と、社会的に認められているものだけが、私と思えない。
私は、私でしかない。
現実に、どんな名前で呼ばれたら、私と感じられるのか?考えてみた。
強いて言うなら、私が本当の私だと、本当に私だと感じられる名前は、音にならないのだと思った。
他者から呼びかけてもらうことのできない、名前。
現実の社会において、機能しない名前。
名前をなくした。
それで狂うことはおろか、精神的に不安定にさえなっていないけれど。
他者から否定されているわけではないしね。
私の感じた「名前をなくした」は、もしかしたら、本当の名前を見つけた、ということなのかもしれない。
他者から呼びかけてもらうこともできないものであっても。否定されることもないだろう。誰も知らないのだから。
たぶん、私の名前は、私だけが知っている。