いっちょ前までの道の真ん中?公開記事50現在で思うこと

2016.8.7

公開記事が50になりました。これまでと何がどう変わってきたかと、今後目指したいところができたのでお話しします。

これでもいい

変化

2016年5月末から手をつけ始めて、3か月ちょっとになります。ほぼ毎日更新してきた計算かな? 最近では、朝起きて

[baloon-line-right img="https://nyanchest.com/wp-content/uploads/2016/06/Nyan.jpg"]ブログ書きたいにゃん…[/baloon-line-right]

と、思えるようになったのが、いっちばんおっきな変化です。書かないと、頭がなにを・どうやって書こうかと考え続けてて、自分自身でうるさいと感じます。
すっかり習慣がついたかな? こんなに早くつくもんなのかなぁ…意志的に月単位でひとつのことを続けた経験がないので、不思議なかんじです。
何度も言ってるけど、最初はつらかった。私なんかがブログなんて書いたってしょうがないんじゃない? そう思い続けながらやってきました。いまだに思ってる。
迷いや不安な気持ちを抱え続け、みつめ続けてきてるとも言える。

私なんかがブログ書いたってしょうがないんじゃない?

そう思う原因の最大のものが「私には有益なコンテンツなんて作れない・提供できない」です。
最初のさいしょに、よけいなもの見すぎたなぁと思います。『ブログを書くなら、こんなふうにしろ』系の、たくさんの人たちの記事。そういったマニュアルがあるのは、ありがたいことです。ダダーンと開けた荒野を前にして、どうしたらいいのかわかんないもんね。私のばあいは、自分の性格が災いしました。
有益なコンテンツが作れないなら、ブログ書いちゃいけないって言われてるような気になった。

有益なコンテンツの提供

『コンテンツ』ってなんのことだか、よくわかってないのに調べてなかったな。かんたんに言えば『中身・内容』だそうです。最近の意味合いでは、『情報の』と捉えるのがいいみたい。

有益とは?

『有益』って、もっと具体的にどんなこと・どんなものなんでしょうね? ここにもひっかかったな。益の有ること、つまり役に立つことだとしましょうか。
もっとシンプルに「このブログを読んでよかったぁ」と思えるかどうか、と解釈することにしますね。

決めるのは誰?

決めるのは、私=ブログを書いている人、ではないと思うんです。考え抜いた結果ね。
もし私が何らかの情報を「これは有益だからみんなに教えなきゃ!」と思ったとして、ブログ書いたとしますね。それっておせっかいじゃない? 斜めな意見なのかもしれないけど、そう思った。もっとも「これいい!」って思ったものって、ヒトに知らせたくなる。それ自体は悪いことじゃなく、いいことだと思います。親切心とかそういったもんだよね?
あくまで私自身の話として、私が「これいい!」な“情報”を前面に押し出して記事書いたらきっとこんなふうになるだろうな〜の例が…

ブログを書くのなら、まずワードプレスを使えなきゃだめですね。無料のブログってオリジナリティが出しにくいし、検索でも不利です。
ひとつのくくり(例えばアメブロならアメブロだけ)で、特定のワードで検索結果に表示されるのは1件だと言われています。あなたよりアクセスのある芸能人のAさんがそのワードで記事を書いたなら、あなたの記事は埋もれてしまいます。
なので、使用料を払ってもレンタルサーバーを借り、オリジナルドメインを習得して、ワードプレスでブログを始めるべきです。

知ってていいことだと思うけど、ほんと、おーきなお世話。(ちょっとおおげさに書きましたよっ)
こういう記事読んだら、私だったら(自分で書いておいてアレだけど)こんな反応するな…

そんなこと言ったって、続くかどうかもわかんないのにお金かけなきゃなんないの? ワードプレス触ったこともないのに、そっから??? ちょっとやってみたかっただけなんだけど、だったら、やめとこっ。

とかなりそう。

こんなふうなことばっかり書いてたら、自分がつまんない。続けられない。その前に、ヒトが何をよい情報だと感じるのか、私にはわからない。だって、いろんなヒトがいるじゃない。
脱線したな。元に戻ります。
「このブログ読んでよかった!」そう感じるのは、読んだヒトだよね? ってことは、「これは有益なコンテンツである」と決めるのは、書いてる私じゃなく、読んでくれる人なんだと言いたかった。決めるのが相手なのに、私が「これは有益だよ!」といくら叫んだって違うよね。

もし好きなことして大丈夫だとしたらどうしたい?

「もし、なにもかも大丈夫だとしたら…」この質問は、カウンセリングの技法の一つです。自分を縛る思い込みや規則、信念などなどから自分を解き放つおまじない。想像するだけなら、なにも怖い・心配しなきゃならないことは起こらないからね。使いどころ・タイミングを誤らなければ、実にパワフルに未来を拓き、現実を変化させていく呪文。
あれもこれもダメを散々考えた後、自分自身に訊きました。すると、書きたい! ブログを続けてみたい! んです。どうしてって、わけはこんなかんじ…

売りたいのは“私”

ずっと最初からそうだった。言えなかったんだ。たとえ誰も見ていなくっても… 「不遜」 「高慢」 「うぬぼれ強すぎない?」 アタマの声たちが大合唱してますね。
言い訳しちゃいましょうか。
ほぼ毎日更新していくなかで、うっかり「私、だてに歳とってきてないじゃないっ」と思いました。ひとつのことについて、あんなことやらこんなことやら、いくつも思い浮かぶ。体験・経験が蓄積されているのを知りました。(ヒトの役に立つかどうかは、また別の話ね)
いい歳の取り方をしてきてる。自分で自分に対して、こんなふうに思えることは、とてもしあわせです。自己肯定感が上がりますね。
それは置いといて、私を買ってくれる方って、いると信じてます。いろんなヒトがいるんだもの。過去にTwitter(今と別のアカウント)でやり取りをしてくれてた方に「あなたの考え方が好きなのね」と言ってもらったことがあります。私を支えてくれる評価です。なによりも嬉しい言葉。私が高い価値を置く、“考える”ということを褒めてくれた。

ロゴスでなくミュトス

“考える”と言っても、ロジカルに、というのが私は苦手です。あれやらこれやらそれやらが、つながっちゃってるもん。自分でもなんで今?どうしてこれで?こんなことを思い出すのか連想するのかポッと浮かんできたのかわからな〜い、ことがよくあります。それらを、なんとかなんとなくでも整理して、言葉にして、文章にしていく。これ、けっこうシンドイ。シンドイのが、けっこう楽しいのは、MM(めっちゃマゾ)だからでしょう。
ロジカルになんてしたくない、という部分もあります。誰かに何かが正当だって証明・説明・説得するなら必要だけど。
私が好きなのは、書きたいのは、ミュトス=物語です。これがあるのは、そもそもこういう状況があって、こんなできごとがあって、こんな経験をしてきて、感じたのはこうで、こんなことを考えて、その上でさらに…みたいな流れ。曖昧とさえ言えるようなもの。本だって、ノンフィクションや論文より、物語・ファンタジーが好き。想像の余地のあるものが。答えのない、あるいは正解がひとつではないようなものが。
私も、物語を書きたいんです。私が書けるとしたら、私自身の物語しかないかもしれません。例は、この記事。

ここで本当に言いたかったのは…

「最近 Pokémon Go が流行ってて、『ゲームをするようなヤツは〜』と否定的な物言いをする人がいる。事件が起こってるし、歩きスマホなどの行動は批判されてもしかたないけれど、人格を否定するのはやめようよね」

でした。私は自分の物語で語りました。『弟をバカにしてたけど、自分がやってみもしないで知らないことを批判しちゃいけないよね』という言い方になってると思います。読んでくれた方は「あー、この人は『スカイリム』がとっても好きなんだねぇ」って思ってくれるような、言いたいこととは違った取り方ができるようなものになってるかと思います。
「いけない」や「悪い」より、「いいよねっ」とか「こうしてみるとうまくいくよー」を書きたい。私が目指すところです。

“考える”という価値

ロジカルが苦手な私ですから、“考える”と言うより思い巡らすという表現を使った方がいいのかもしれない。あーでもないこーでもない、あーもそーもある…そうやって永遠と遊ぶのが好き。言葉だけでなく、イメージでもね。
私の書いたものを読んでくれた方が、そうしてくれたなら、とても嬉しい。

これなら提供できる!

「私はこれなら提供することができます」と言えるものがあるとしたら、「『ふ〜ん』と思ってもらうこと」かもしれない。
目指すところは、きっかけの提供。そして、情報としての物語。例えば、20記事、30記事、そしてこの50記事のタイミングで振り返りをしています。現在進行形の変化の記録。読んでくれた人の中にもし、ご自分がブログを続けていくことに迷いや不安などを感じていらっしゃる方がいるとしたら、「あ、おんなじだ」と思ってもらえるかもしれない。「迷いだらけでもいいんだな、不安ってあっても続けていけるもんなんだな。ふ〜ん」って思ってもらいたい。極論すれば、「自分はこれでいいんだ」と思ってもらいたいんです。
もう3回目かな? また言うねっ いろんな人がいるんだもん、自分は自分でいいんだよ。私がたどり着いたのはコレ。価値を決めるのは自分じゃないから、ヒトのことなんてわからないんだから、好きなことしていけばいいんじゃない?

こんなでもいいんだ…

読んでくださった方が「こんなヤツもいるんだ。ふ〜ん、こんなでもいいんだ」そう思ってもらえたら、私はそれでいい。むしろ、そう思ってもらえるように物語を書いてます。こんなでもいいんだよ。そしてね、もっとよくなることもできるよ。
私は「これでいい」とは言ってません。これで“も”いい。この違いは、この先、変わっていくかいかないかです。わかってくれる?
自分自身に嘘をつくことなく、だますことなく、少なくとも誠実であろうとしてやっていくのなら、やり方はいいと思うよ。

まとめ

ながなが書いてきましたが、一言で言えば
自分に誠実にあろうとしてやっていくなら、やり方はどうあれ、いいんじゃない? そう思えるようになりました。
続けていくよ。また変わっていくだろうね。

[baloon-line-right img="https://nyanchest.com/wp-content/uploads/2016/06/Nyan.jpg"]たくさんの人に会いたいですにゃの[/baloon-line-right]