人の顔色を見ることと誠意の示し方と信頼してもらいたい気持ち
「おまえは人の顔色を見る。あっちの家に行けば、そこの人が喜ぶような言動をし、こっちの家に行けば、こっちの人が喜ぶようなことをする」
父に言われたのは、いつだったろうか? 小学生だった。そのときは、意味がわからなかった。ただ、なにか非難されているように、責められているように感じた。
人の顔色を見ることは、私のサバイバルの術だったのだけれど。
私は今でも、人の顔色を見る。敏感に感じ取る。
「近所には悪ガキしかいないから」という理由で、母は私を外で遊ばせるのを嫌った。大人たちに囲まれて、私は育った。
子どもなのに。
大人たちと自分の違いをわからず、大人たちの振る舞いを自分のものにした。
父は言った「おまえには、子どもらしい時期がなかった」と。
子どもだった私が、人の、大人たちの顔色を見るようになったのは、どうしてだろう?
大人たちがそうやっていたからなのか?
それとも、子どもらしい「大人たちの愛情と庇護を得たい」という想いの表れだったのだろうか?
私の周りの大人たちは、大人びた私の振る舞いを喜んだ。はっきりとした生意気な物言いを。私が、実際には子どもだったからだ。
子どもだったから、許された。大目に見てもらっていただけ。ちやほやされていると、勘違いしていい気になっていた。
どこかで、ディスカウントしていなかったろうか? 人を喜ばせるなんてかんたんだ、人からちやほやされるなんてかんたんだ、と。
たぶん、このことが、後に自分に悪影響した。
かんたんに手に入れたものは、かんたんに失う。すべてがそうとは限らないけれど、私の自信はハリボテだった。
その埋め合わせは、したね。
はっきりとした物言いは、私の個性として、今ある。否定的に身につけたものだったのかもしれないけれど、肯定的に働いた。他者に対してではなく、自分自身に対して、だ。
はっきりとした物言い、つまり自分の考えをはっきりと口にするということは、自分自身が何をどう考えているかをわかっていなくてはできないことだ。だから、よく考えるようになって、自分自身をはっきりさせるようになった。
しかし、言う・口に出すことは、その考えがいいとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そういうことじゃないんだよね。ただ単純に「私は、こう考えている」という事実の表明でしかない。
気をつけなくてはいけないのが、他者との関わりのなかで自分の考えを口にするときの言い方や言葉の選び方。
「私は、こう考えている」は、事実の表明なのだから「あなたは間違っている、私のこの考えが正しい」という表現をとってはいけないのだと思う。
私が長く気づかなかったのは、ここだ。「(相手の)それじゃダメ。(私の)こうすべき」という言い方をしてきた。これでは怒りを買いやすいし、人を傷つけやすい。
せっかくよいことを言ったとしてもね、感情的な反発を呼んでしまっては、どうしようもないよね。
今私が人の顔色を見るのは、相手のご機嫌をとるためではない。自分が間違った物言いや言葉選びをしていないかどうかの確認だ。感情を逆なでされると、たいてい誰でも顔に出るから。
わずかな目の揺らぎ、かすかな眉の動きや、微妙な口元のこわばり。そういったものに顕著に表れる。
自分の考えをはっきりと言うのは、私の誠意の示し方でもある。相手から自分を隠さない。私はこういう人間なのだという明示。
なぜそんなことをしたいのかというと、信頼してもらいたいからだ。隠し事や裏表、意図せずしても嘘のある人を信用するだろうか?と思うからだ。
こんなこと考えて、している時点で、自分を大人じゃないなと思う。
本音と建前は使い分けるべきではないのか? ときに本心を明かさぬ恥じらいを持つべきではないのか?
やなこった!