よいもの好きなものに目を向けてみない?
自分の好きを、言葉にして「これ」と言うことができる?
自分の望みを、言葉にして「こんなふうなのがいい」と話すことができる?
「もちろんできる」という人には、このブログは必要ではないだろう。
アダルトチルドレンや毒親が囁かれ続け、社畜だとかブラック企業だとかが声高に叫ばれ、鬱や引きこもりが増えている。普通の人の健康な心も、いつどうなるともわからない世の中。私がこのブログで最も伝えたいのは、自分の心とのつきあい方。
なぜなら、私自身が生きづらさを抱えながらもごく普通に暮らしているつもりで、心の調子を崩してしまった経験があるから。身体的な病気の経験がある人が、普段からの予防が大切だよと訴えるのと同じ理由。
しかし一応普通に日々を過ごすことができている人に、どうすれば自分の心とじょうずにつきあっていくのも大切なことだよと訴えることができるのか? その必要性を感じてもらえるのか? 身体の病なら、未病。具体的にとりたてて差し障る症状もなく、そこはかとない不快感を感じるレベルで、たとえば病院に行こうとするだろうか? その必要性を感じるだろうか? 私なら、しないし感じない。
そこで、考え直す。私の主張「誰でもが自分の心とのつきあい方を知っておくといい」は、無駄なのか?
いや、無駄ではない。必要性を感じてもらえないだけだ。だとしたら、どんなやり方が、普通に暮らしている人々へ、無理なく効果的な訴求方法だろうか?
考え続けてきて、たどり着いたのが、夢をもつということであり、自分にとってのよいもの好きなものに目を向けていこうというやり方だ。
しなければならないことと、好きなことを別々なものと考えたことはある?
しなければならないことがある / 好きなことがある。同時に存在させてもいいのだと、考えたことはある?
自分の心とのつきあい方にも、いくつものやり方がある。
厳しくつらいものは、えてして効果も高い。しかし、ハードなスポーツがそうであるように、心のこともまた、基礎体力が必要とされる。地道に積み上げるのを好む人や、基礎固めをしっかりとしたい人向けには、時間はかかるけれど確実に成果を出せる方法を話そう。
一方で、より多くの人向けに、楽しいもの・嬉しくなるようなもの・元気になれるようなやり方を提案しよう。
私たちは、いつの間に、自分の好きなものやよいと感じるもの、快いかんじを忘れたのだろうか?
心の不調は、ここから始まると考える。
しなければならないことに追いたてられて、自分の望むもの好きなものを見失ってしまっていること。
私は、ここで、言い続ける。
自分にとってよいものや、自分が好きだと感じるようなものを、もっと探し、求めていこう、と。
つらいことや苦しいこと、頑張らなきゃできないようなことに価値がないと言っているのではない。そういったことにのみ価値を見出すのは、バランスが取れているとは言えないのではないか?と言っているのだ。
何が原因なのか・何が悪いのかを考えるだけでなく、どうしたらよりいいのか・どうなったらもっと心地いいのか? ゴールを考えることで見えてくる解決策や、可能になる行動がある。
問題の原因探しも必要なことではある。けれど、それだけでなく、自分の心とつきあう方法は、もっと明るく楽しくてもいいではないか。
私がここでしているのは、何かだけに限定したり、何かにのみ執着していくより、もっと全体性をもって人間らしく生きていこう、という呼びかけだ。
叶いそうにもない夢を、みてはいけないと思ってない?
夢は、具体的に計画して実現させなければならないと思ってない?
嫌いだけでなく、好きだという気持ちを感じよう。不満や不平や批判を言いたくなるようなものだけに目を止めるのではなく、よいものにも目を向けよう。
しかしこれは、楽観主義や楽天主義や快楽主義に基づくものではない。悪いものを良いものとして扱うことでも、無理やりに考えを変えさせようとするものでもない。
私たちは、生き物であり、そして人間だ。
快いもの、美しいもの、善いものを感じられるはず。それが人間らしさの部分ではないのだろうか。
悩みもあり、不満を抱え、未だ癒えぬ古い傷をいくつも持っていたとしても、ごく普通の範囲で日々を送っている私たちに必要なのは、夢をみることだ。可能性の広がりと、その先にある希望に目を向けることだ。
さぁ、今この瞬間から、自分にとってよいもの・自分が好きだと感じるものにも、もっと目を向けてみない?