分岐点・すぎてゆくもの
人の一生には、いくつもの重要な分岐点があるのだろう。
右を選んでいたら、左に行ってれば、そのまま真っ直ぐ進んでいたら、この私はいなかったのかもしれない。そんなことを考えたことも、あったろうか?
思い出せさえしない。
なんのために、私は生きるのか。
死ねないからだよ。
嘲笑っていた。
死に焦がれ憧れ、それでも苦痛を恐れ選択することのできない自分を。
なぜ、死にたさが、きれいさっぱりなくなったのか、実はよくわからない。
理由なんて、いろんなことの積み重ねみたいなもので、コレとひとつあるいはいくつかを挙げるなんて、できないのかもしれない。少なくとも私のばあい、劇的なアレと言えるできごとは思いつかない。
死にたさがなくなっても、死にたい気持ちがかつてあったという事実は変わらない。
抱えてるうちは、自分が抱えてるってわかってなかった。
踏切を通る電車の車輪に吸い寄せられそうだと感じたり、ここから飛び降りたらと考えたり、ハサミでどのくらい切れるのかと想像したりしてた。ぼんやりと。
自覚的でなく、いつもあった死への想い。
「死ねたらいいな」ぐらいは言ったかもしれない。覚えてない。そのぐらいの無自覚さ。
誰かが、あんなふうな気持ちをもっていると知ると、こわいな。
いつ、ふらりと行ってしまうかわからない。自覚的でないからこその、こわさ。
痛みもこわくないと思えたときがあった。ふらりと行ってしまう瞬間だったのだろう。
一度めは他者に名前を呼ばれ、我に返った。
二度めは、首を押さえられて動けなくなってるうちに過ぎていった。
かつて私が言われた「生きてればいいことあるよ」を、私は言うつもりなどない。
でも、生きてるうちに過ぎ去っていくものもあるんだなと思う。20年30年とかかったけど。
その間していたのはたぶん、生きようとか生きる意味を見つけようとすることじゃなく、死なないようにすることだったのかもしれない。
時間が、時間のみが、解決してくれるわけじゃない。「時間が解決する」とは、本人の必死さをないがしろにしかねない言い方だと思う。
たぶん、これも無自覚にしてたのだろう必死で死なないようにする、という踏ん張り方もあってもいいじゃないか。
人の一生には、いくつもの重要な分岐点があるのだろう。
自分で選ぶこともあれば、なにか不思議なめぐりあわせで、気がついたらここにいたなんてこともあるんだろう。
アタマで理解できないことは、生きてるといろいろある。
OneRepublic – Choke