比較するなら「過去の自分自身」と

どうもこうもしようなく、気持ちが暴れる。それでもどうにかしたくて・苦しくて・いてもたてもいられなくて、なかば無意識に、あれもこれも試してみている。心理カウンセリングの技法(ワーク)を。
その中のひとつが、フォーカシングだ。

私個人が理解するフォーカシングとは、身体の内側にかんじるなにか=フェルトセンスとともに居ること。それ/彼らとともに居、かんじていくことで理解すること。

これまでときおり思い出したようにしてきた我流な方法では、今ここでは、不足と感じた。体験を進めたい、と。
フォーカシング体験を進めるための質問がある。質問があるのは覚えているけれど、具体的になんだったかを忘れてしまっている。
だから、うちにある本を出してきたのだし、自分のブログ内を検索した。

自分のブログ内を検索して、どうやら今の私が求める情報を書き記していないようだと知った。
たぶん、本の丸写しのようなものを個人がネットにあげるなぞ、と自分を戒めやめたのだろう。自分のものにできていない、ものにできるほど精通できていない、ということでもある。

脱線ではあるけれど、めったにしない読み返しをした。珍しく興味がわいて、ヒットしたページをいくつか読んだ。
それらを書き記した頃、私には、なにがしかの優しさがあった。そう感じた。今はない種類の優しさだ。

いったいそれはなんだろうか?
いつ、失くしたのだろう?

変わってきたのはわかっている。けれど、自分のよい部分を失くすというやり方だとは思っていなかった。
自分にとってよいように変わったと思っていたのはつもりでしかなく、実際には変わっていなくて、支障をきたした。支障をきたして傷ついた自分を癒し解決するような方法を探していた。気持ちが暴れていてもたてもいられないほどだから。

いけないんだ、と思った。
そう、「いけなんだ」と思った。
「この私ではいけないんだ」と思った。
そう思ったのに気づいて改めて、「この私ではいけないんだ」と思うのが私の問題/課題ではないのか。

この私では、いけないんだろうか?
この私ではいけない、と思っているから、そこかしこで支障をきたすんではないだろうか?
私はこういうものである。と、理解し認めてしか、私の活かし方を考えられないんじゃないだろうか?
理解し認めたところで、こういうものである私を活かせる場は、この世界にはほぼないのかもしれないのだけど。
ほぼない=そうかんたんには見つからない、を私は恐れていた。だって、がんばってもがんばっても、見つからないかもしれないんだ。
結果として、だから自分を殺してでも大多数=よういに使える・役にたつ・価値のある自分になりたかったし、そうなろうとしてきた。
ほらね。空回ったのは、この考え方でのやり方だよ。

ほとんどないその場所を探して、ここかなあそこかなと試し探して行くしかない。
ここかなあそこかなと試しては「これも違った」と傷つく。そうやって知っていく自分の不器用さも嫌だった。と、改めて想う。
アンデルセンの“みにくいアヒルの子”を思い起こす。私の物語はやはりそれなのか、と。

自分が書き記したものを読んで、気づかされた。忘れていたのを知った。
他人と比べるより比較するなら過去の自分とにして成長を知ろう、みたいな話しを目にするのを思い出した。
そうか、私は過去の自分に負けてるよ。びっくりしたし、感動した。

感動したから、これを書いてる。
「代替わり」って、他者とだと思っていた。もっと柔軟で可能性のある若い世代の他者にこの先を譲り任せ、歳を重ねてしまった自分は退くことなんだと。まさか自分自身の代替わりがあるとは思ってもみなかった。
まさに、外にあるものは内にもあるという、サイコシンセシスが説くやつじゃないか。

他者には負けたくはない。勝ち気な私は、いまだそう思う。けれど、自分に負けたのを知って、なんだか癒されている。過去の自分の言うことになら、抵抗感がないのか。もしかしたら必ずしもそうとは言えないんだろうけど、だけど、また初めての興味深い体験をした気がしている。

ところで、探していた質問、フォーカシング体験を進めるための質問は以下。
※そのままの抜粋引用ではないが、引用として扱う。
※リンク先は Amazon

『もしこのかんじと同じ感情があるとしたら、どんな感情だろうか?』 ex. 楽しいときのふわふわ、怒りの熱さetc
『何がそんなに———なの?』 ex. ざわざわする、怖い etc
『何が必要なの?』 ex. “私”をはじめ何かからしてほしいことや言ってほしいことなどがあるかどうか etc
『「何もかもが大丈夫」になったら、どんなかんじがするか教えて?』

やさしいフォーカシング:じぶんでできる心の処方

つれづれ

Posted by nao