父のこと
その時は、実家へ行こうとすれば新幹線に乗らなくてはならない場所に住んでいた。
めったないどころか、まったくないほどなのだけど、父から電話がかかってきた。脳に腫瘍があるんだと言う。「脳に腫瘍があるの」と言った後、知るに至った経緯を話してくれた。
父の話しようは、私にとっては心地よい。短特直入で無駄がない。たとえば会う約束をするときなぞ、普通は相手の都合を聞いて調整しようとするのかもしれないが、父は自分の都合を表明しそれでいいかと聞くのだ。
ショックだったか? どうだったろう。電話がかかってきたこと同様に驚きはしたけれど、死に至る病の可能性があるのを悲しむとかそういう気持ちはなかったような気がする。80を過ぎているわけだし、いつ最期を迎えてもおかしくはない。本人もいつだったか「親より長く生きたからもういいと思ってる」と言っていた。それに、私たち、父と私の間には区切りがついている。
あの時も、父から電話がかかってきて、会いに行くと言われたんだ。ほとんど電車に乗ったことのない人がどうなることかと思っていたら、弟に頼んで車で送り迎えしてもらってた。リスク管理がしっかりしてるというか、賭けをしないというか、そんなような意味でしっかり・ちゃっかりしたところが父にはある。
ゲシュタルト療法でいうところの『未完了の問題』をかたづけに来たんだ。父が帰ってからそう思った。「(お前が)お母さんを嫌いになっちゃったときに、もっと間に入っておけばよかったと思った」という心残りを伝えるのが、おそらく父の目的だったんだろう。本人に自覚はなかったかもしれないけれど。
とは別に、私の方からは「(私は)人として褒めてもらえるようになったよ」と伝えた。「パパのおかげだよ。パパを誇りに思うよ」と。私の内面を育てたのは、父だから。
こうして、私たちには区切りがついていた。
近しい人を亡くすと、ああもこうもしておけばよかったと後悔をするのだという。私たちに区切りはついているけれど、そんなふうな後悔はしないとは言わないでおく。父を亡くしてみないと実際のところはわからない。
脳腫瘍と父から聞いてしばらくしてから、電話をくれた母は笑っていた。「認知症なのよ」と。聞いて、私はぽかんとした。
母によれば、父が一緒に来てというので病院に行き、ふたりで診断結果を聞いたのだそうだ。どこでどうして本人が脳腫瘍だと思い込んだのかわからない。それも認知症ゆえなのかもしれない。
あんなやらこんなやら、母からエピソードを聞いたけれど、父がどうなっているのか確かめたいと思った。でも新幹線に乗らなければ会いに行けない。
何ヶ月も経ってから、新幹線には乗らないで済む距離に引っ越した。実家までは2時間までかからない距離。
数年ぶりに会う両親は、見た目にすっかり歳をとっていて内心驚いた。私だってすっかり白髪が増えたんだ。
母から聞いていたほどには、父の様子は変わっていなかった。話しがかみあってないかな?と感じたりはあったけれど。
それから何度か、母の都合のいいときに会いに行ってる。
この前行ったときには「わかんなくなってっちゃう」と言っていた。わらなくなっていってることがわかっているのか、と感心した。
父には勘のいいところがある。後から思い返してみれば、近い将来に備えたのかと思われるようなことをしたり言ったりもある。
とは別に、先のことを考えられる人でもあった。
ずいぶん前「おまえたちには相続を放棄して欲しいの」と言った。自分が死んだ後、自分の妻、私の母を心配して。住む場所だけは確保しておきたいという父の意向。それからずいぶん経った今、主人が許せば、母は私が引き取りたいと願っている。私には母が必要で、たぶん母との間には未完了の問題が残ってる。
父の話しをしていたんだった。
2ヶ月おきぐらいで、何度会いにいったろう。まだ5回にもならないだろうか。父は穏やかになっていってるかんじがする。元気さというか明るさというか、もすこーしずつ増してきた気がしている。
認知症と知って、本を読んだ。記憶が失われていくのみならず、たとえば文字は読めるけれど意味がむすびつかなくなり理解できなくなるなどがあると知った。想像すると恐怖感がある。わからなくなっていくということに恐怖を感じる。父が感じてるかもしれない恐怖を思って、とてもとても悲しかった。けれど認知症の末期には、穏やかになる人が多いのだと知って救いを感じた。
私を、いつまでわかるのだろう? いつまで、娘を、この私を覚えているのだろう? 悲しみよりも、好奇心の方が今は強い。