奪われる恐怖を抱えて

2017.11.15

なくしたことが、あったから。そして、取り戻したから。
奪われるという、恐怖を抱えている。

小学生。
何年生だったろう? 何歳だったろう?
本を取り上げられた。
「全部出しなさい」に、従ったのだから、自主的に運んだ。
自主的に?そう言えなくもないのだろう。行動だけを見れば。
取り上げられた。というのは、私の気持ちであり、捉え方だ。

親は、子によかれと考える。
子は、親の思いを理解できないことも、多々あるのだろう。

hold-on

おそらくは、30年ほどの月日がかかった。
本を取り上げられたことが、少なくとも、その後の私の苦しみの原因のひとつであったことに気づくまで。

馴染めない子だった。
学校は、自分がよそ者なのだとおもい知る場でしかなかった。
よそ者。異端者。変わり者。どれも、今となっては少し詩的な表現過ぎると感じる。
もっと生々しく薄汚く価値のないかんじを言い表す名前はないものか?
私の感じていたかんじに名付ける言葉を、私は知らない。

本を読んでいるときだけ、現実のすべてを忘れていられた。好んで読むのがファンタジーだからだろう。
逃避せずには、生きられなかった。

感覚が過敏なことや、認知に歪みがあったとなど、理由を説明することができる。今なら。
大人になった今だから。
子どもだった私には、自分を説明することなどできなかったし、まして、自分の感じていることに気づく力もなかった。

逃げるしか、できなかった。
本を取り上げられ、逃げ場所を奪われた。
私は徐々に、自分で気づかぬうちに、死にたさを募らせていった。
認知は、ますます歪んでいったのだろう。
最終的には、感情を感じないようにすることで対処していた。

感情は、無くすことはできなかった。
少しの刺激で、怒りを爆発させるようになった。無くすつもりで、抑圧になっていたのだと推測される。
よい感情を感じにくくなり、怒りや妬みや自己嫌悪などのよくない感情たちは常にあった。絶望もあった。
口にすることのない死にたさが、影のように常にあった。私たちはぴったりと、寄り添っていた。

最後のさいごに残された逃げ場所は、死なのだよね。
死は、希望でさえありえるのだ。

本当にもうどうしようもなくなったら、死ねばいいんだ。そう考えると、ひととき、楽になれた。

失って、取り戻したものだけに、また奪われるのではないかという恐怖感がある。
奪われる恐怖。
感情を禁止されること・自由に考えられなくなること・行動を操られること。
他者からそれらの兆候を受けとると、ものすごく反発するのは、恐怖感からだ。
こういうの、トラウマと云うのかもしれない。ある種のPTSDなのかもしれない。

戦うよ。私から自由を、生きている実感を奪おうとするようなものと直接対峙したならば。
相手の息の根をとめるまで、あるいは私の息の根がとまるまで。
また無力になってしまったら、私は今度こそ本当に、生きながらにして死ぬのだろうなと想像している。

失って、取り戻して、もう2度と奪われたくないと思うほどに、生きることを知ったの。
生きるとは何か? 訊かれたとしたら、私にとっては「感じること」と答える。
恐怖を感じることもできる。私は、生きてる。

つれづれ生きる

Posted by nao