母が子を平手打ちしたらしいのを目撃しての覚書

2017.12.11

それは、私が小学生のときでした。
弟を乗せた母と、私は、自転車2台で走っていました。道路を斜めに渡ったところで、知らないおじいさんに、母が怒鳴られた。「子どもを殺す気か!」みたいなことだったと記憶してる。

なぜ、これを思い出したのかと言うと、日曜日の出来事がきっかけでした。

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はじめに

日曜の午後、通りすがりに見かけた光景です。ショッピングモールの出口の所でした。

ツイートにあるように、3車線の道路を挟んでの距離、一瞬の出来事だったのもあって、確かなことは言えません。
ただ、私が見たと思った通りのことが起こったのだとしたら、私は何をすべきだったのだろうか?という考えが頭を離れなくなっています。

親が子どもに手を上げること

たぶん、子どもの方は、小学生ぐらいなのだと思います。男の子でした。
お母さんも子どもも小綺麗な服装、はっきり言ってしまえば安物を着ていなかったことから、それなりの経済力のある家庭なのだろうと推測しています。私の目には、日常的に暴力が振るわれているようにも見受けられませんでした。

母親が子どもを怒鳴っているだけならば、私の胸は痛みますが、何かしようとまでは思いません。
『子どもが平手打ちされた(ように見えた)』のが、今回の最も重要なポイントです。
親が子どもに手を上げることは、虐待なんです。

子どもに対する虐待とは

詳しくは、厚生労働省の『児童虐待の防止等に関する法律』をご覧いただきたい。
私が見たように思う、母から子への平手打ちは、以下の抜粋部分に相当します。

(児童虐待の定義)
第二条 この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
一 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。

大人、まして親と子どもでは、腕力の点でも立場の点でも力の差は歴然としています。
私個人は、いかなる状況であれど、親が子どもに手を上げることは虐待になりうる行為だと捉えています。

虐待の種類は、肉体への暴力的な行為だけではありません。
千葉県のHPですが DVとは? に、わかりやすくまとめられているのを読むことができます。ぜひご一読ください。

さて、ここまでで、DVとは何か?を提示しました。
こうして法律にもなっていることだから、自分が目にしたものを気にし続けているのか? 違います。ここからが、私にとっての本題です。

見ず知らずの他人へのアプローチを考える

母が子を平手打ちしたように見えた際、まずびっくりしたんですが、心の中でとっさにしたいと思ったのは2つ。
① 母親に「それは虐待ですよ」と言いたい。
② 子どもを守りたい。

なのに、なぜ通り過ぎたか?
一番は、見ず知らずの親子のことに、上手に口を挟める気がしなかったからです。
どう声をかけたらいいのか、からして、わかりませんでした。「どうしました?」って訊けばよかったのかな?と、今は思っています。

1日経った今でも、どうやったら上手なアプローチができたのか、わかりません。しかし、たぶんこういったことには正解がないんだろうなと思い始めています。

そのお母さんが、日常的に子どもに手を上げているとは、私には思えません。
非難という意味ではなく、子どもに手を上げることは虐待になるのだと知って欲しいのですが、我が子の前で立場をなくすようなことにもしたくない。
私自身が子どものとき、見知らぬおじいさんから母を守らなきゃと思った経験があるから。

冒頭でお話しした、あのおじいさんは「よく確認もしないで道路を斜めに渡るとは、子どもが事故にあうかもしれないだろうが」という意味で、注意してくれました。正論。
注意するのは正しいことだけれど、怒鳴るのは必要だったとは思えない。
母が怒鳴られるというのは、子どもの私からしたら、母がいじめられていると感じ、母を守らなければと思う経験でした。

もし「どうしました?」なり、声をかけてみたらどうなったかなと想像します。
子どもを叱っていたとして、おそらくは怒っている状態でしょう。見ず知らずの他人にいきなり声をかけられるって、びっくりするんじゃないかと想像します。びっくりすると、一瞬スキができる。怒りではない状態になるんですよね。
…いいかも。今度何か機会があったら、実験してみます。

私個人が問題だと思っていること

今回の出来事は、私個人が関心を持っている社会的な問題を包括していました。

  • 閉ざされた家庭における“普通”の間違い
  • 現実的な意味の子どもと、大人の内側にいる子どもの傷のケア
  • 怒りの表現方法

私が子ども時代に出会ったおじいさんは、正しい人だったのだと思います。子どもを危険にさらす可能性のある親を、注意してくれた。
現代は、人々が他者に無関心過ぎるとの指摘もあります。そのことによって、なおさら、各家庭が密室となり、間違っている習慣に気づきにくくなっている部分もあると思っています。
今、子どもである子たちが、もし親の間違った“普通”で傷ついていたとしても逃げ場はない。周りの大人が気づくことがなく、助けることもできなくなっていると考えています。
私個人は、子どもたちに、助けてくれる・少なくとも助けようとしてくれる大人もいるのだと知って欲しいと願っています。
そしてまた、今大人である人たちの心の中にいる傷ついた子どもたちが怒り狂っているのも、私個人はよく感じていて、その部分たちのケアに、少しでも貢献することができればと望んでいます。
それなのに、私は何もできなかった。

こう考えてくると、今回の出来事は、私自身が何をどうしたいのか? 何が、実際にできるのか? を試された機会だったのだと思えてきます。

さいごに

繰り返し言いましたが、私が目撃したことは、事実かどうかわかりません。もし、事実だったとしたら、と考えてみたわけです。
DVとは何であるか?は、いつか何かの機会に自分の覚書としてリンクを貼っておきたかったものでした。
ひとつの出来事から、自分自身が今何に興味をもちどう考えているのかを整理することができました。

今現在の私にできることは、こうして書き記しておくことだけなのかもしれない。
しかし、こうしてインターネット上に残しておくことで、どこかのどのたかが目にし、自分なりに考えてくださるかもしれない。そう思うと希望が持てます。

ここに挙げた3つの問題点については、今後も取り組んでいきたいと思います。手段の一つとして、このブログがあるのだと思っています。

つれづれ気持ち,家族

Posted by nao