死が別つまで
休日には、主人とショッピングモールへ行く。
食事をしたり、日用品を買ったりと、すべてを済ますことのできるモールはとても便利だ。
ペットショップもある。私たちは、ただ、ころころと元気に遊ぶ小さなわんこたちを眺めるためだけに、足を止める。
珍しく、今日はシーズーがいた。白と茶色の、小さなシーズー。
「Sivaちゃんにも、こんなときがあったんだね」愛らしさにきゃっきゃっと喜び、目を細める。
「あの頃は、私はいろいろいっぱいいっぱいで、こんな可愛らしさを楽しめなかったけれど」
主人にとっても、私にとっても、まったく初めてのペットが今の愛犬、シーズーのSiva。私たちはそれまで、犬猫に親しんだこともなかった。
思い出す。
ペットショップで、最初にSivaと会ったときのこと。
手のひらの上に、納まりはしないけれど、乗るほどの小さなちいさな体で、必死に逃げようとしていた。
まだ生え揃ってもいない歯で指に噛みつき、なんとか逃れ出ようとしていた。
私たちを怖がって。
あの必死なようすを思い出すと、涙がとまらなくなるのはなぜだろう?
「あの頃は、毎日お留守番だったよな」
主人は隣で小さなわんこたちを眺め、おお!もうちょっと!などと声をあげる。
12月で3歳になるSiva。私たちと暮らし始めたのは、3ヶ月のとき。
2歳を過ぎた頃から、私たちにも尻尾を振ってくれるようになり、今は尻尾だけでなくお尻から振ってお出迎えしてくれる。
「あんなに一所懸命逃げようとしてたのに、今は一所懸命くっつこうとしてくれるのね」
相好を崩すとは、この状態のことを言うのだろうと思う。
主人は先に眠り、Sivaは私の足の間で丸くなっている。
温かい。
小さかったあの頃に、今がそうであるように、もっとこのコとの毎日を楽しむことができていたなら…と想う。けれど、取り戻したいとか、時を戻したいとかは、思わない。
だって、私たちは確実に時を重ねてきた。そのちょっとでもが変わってしまったら、今ここにはいないのだろう。
あの頃にもっと…と想うのならば、今この瞬間に始めればいいのだ。
このコの温度、呼吸。ぴったりとくっついている存在を愛しく撫でながら、泣く。
いつか、死によって、別たれる。
自分の死は、他を遺すことだ。
Sivaの死は、私が遺されるということだ。
これらは、全然違う!
私は、親しい人を亡くしたことがない。寿命からすれば、私の初めての、かけがえのないものを失う体験は、Sivaによってもたらされるだろう。
このコには、いろんなことを教えてもらった。大切とはなにか、どういうことなのか。愛とはどんなものなのか、どんなふうに感じるものなのか。
私はこうしてまだ来ない未来を想うことで、死をシミレーションしているのかもしれない。
ばかばかしいほどに泣きながら、Sivaからの最後の贈り物はたぶん、死なのだろうと想う。
愛を教えてくれたことが最大の贈り物だと思ってきたのだけれど、もしかしたら違うのかもしれない。
遺される時をシミレーションしながら、私は心を鍛える。
必ず訪れる日に備えて。
どんなにシミレーションしようと、現実に迎えるその日は、きっと違っているのだろう。
そのとき、私はどこまでを感じ切ることができるだろうか? こうしてトレーニングすることで、深くふかく感じられるようになっているだろうか?
たぶん、かけがえなく大切なものを亡くしたとき、遺された者がいかに感じ切ることができるか?それによって、逝く者のなにかになるような気がする。
願わくば、Sivaのくれるものを、余さず感じられるわたしでありますように。