ふいに訪れた気持ちの名は「不安」

2018.7.17

ふいに訪れた気持ちの名は、不安。
直前に、なにを考えていただろうかと思い起こす━━

ここのところ、頭がはっきりしないかんじがする。…頭がはっきりしない? と、言うか… やる気がでないかんじだろうか? やる気… 気力? そうかもしれないし、むしろ体力ってかんじ?
━━自分の感じているかんじについて、思いめぐらせていた。

focus

朝は早く起きるようになったけれど、午前中のうちに、また眠ってしまう。
やりたいことはあっても、いまいちノラなくて、なんとなく気持ちがだるい。
集中することはできても、わりとすぐ疲れるかんじがする。
もうろうと、までいかないけど、意識がほわんとしたかんじになりやすい━━

トシだろうか?と考える。だとしたら、30代、20代はどうだった? 頭がクリアだったと言える? 覚えてない。意識したことがなかったのかも。
単に暑いからなのかもしれない。

ものの呼び方や名前が出てこないのが増えてる。一般に年齢のせいと云われるやつだろうか? 40代も後半になったばかりで? 少し早くないだろうか? …老化にも個人差がある━━
もし、このまま、この頭がほわんとするかんじが進行していったらどうなるんだろう?
━━不安が訪れたのは、このときだった。

考えることが好きだ。論理だって筋道立てて考えてるわけではなくて、私のばあいは、思いめぐらせるといったかんじなんだろう。
頭のなかにある情報の断片を、ジグソーパズルでするように、ピタリとはまるピースを探していく。さまざまな要素や断片を手にとっては、ああでもこうでも置いてみる。みたいなことをするのだ。ピースをなんとなく置いていくと、なにかが見えてくる。しばらく続けていくと、だいたいわかってくる。そのかんじが好きなんだ。

いつもなにか考えてる。
ぼんやりとした感触のようななにかの、全体像を知りたくて。

できなくなるのかな?と考えた。私の楽しみ、私の生きてる意味でもある、考えるということが。
失ってゆくのだとすれば、それは私にとって自分自身を失っていくことに等しい。
まだそれほどに身に迫った問題として実感しているわけではないからなのだろう、恐れとまではいかないけれど、そこはかとなく不安。

この不安は、どんなかんじなのだろうかと、内側に意識を向けてみる。
大きさは? 質感は? どんな色をしている? フォーカシングの要領で、胸にある不安に触れる。
小さくまえならえした幅。雲みたいにもくもくとした形。白っぽい薄いグレー。両手で挟んでみると、ほわほわする。輪郭ははっきりしてなくて、手が入るのだけど、中心へ向かうにつれ、密度が増していくようだ。
ほわほわするそれに触れていると、なんだかかわいくなってきた。
これなら、抱えていける。
親しみと、愛しさにも似た気持ちを感じて、ほほ笑む。
うん、あってもいい。

不安にも、いろんなものがあるのだと思う。
感じていけば気が狂ってしまうだろう危険を感じた不安もあった。
今回のは違う。そんな強烈なものじゃない。
「雲」と名づけ、胸のなかにそっと置いた。


『フォーカシング』は、自分と仲良くなっていくための技法の一つ。
当ブログでは度々言っているのに、それがどんなものなのか? どうやってするのか? など、きちんと説明したことはありません。私に説明できる気がしなくて。
フォーカシングはそれこそ体得するものであって、説明を聞いて納得できるようなものでもない気もします。
それでも、よいものなので、知ってはいただきたい気持ちがあります。
興味のある方は、本を手にとっていただくのもいいかもしれません。