動く生き物としての歓喜
運動を始めて、夜の寝付きがよくなった。朝も比較的目覚めやすくなったような気がするし、起きてからボーッとする時間が減り、食事をしようという思いももつようになった。食事後の洗い物も苦にならない。
運動嫌いの私が、なぜ、運動を始めたのか? 我ながら不思議な気持ちになるけれど、すべてつながって、当然の流れとしてなるようになっているのだとわかる。
やりたいことありき
やりたいことは、全部やろう。だけど、いっぺんにじゃない。半年でも1年でもかけてじっくりとやっていこう。
自分を待つことができるように、心を創ってきたじゃないか。
やりたいこと全部やるには、まず体力がいる。そのために、運動始めたのか。
もっと知力もいるね。
今は心・身・知のバランスを整える期間なのか。わかった。
朝起きられるように。
起きてすぐ動けるように。
疲れても、今より少ないお昼寝時間ですむように。
身体を整えるなくては。
運動して、もう少しきちんと食べて。
24時間を有効に使えるように。
だって、今の私には、やりたいことがたくさんある。
体力のための筋力
必要なのは、鍛え上げることではなく、あくまで日常生活に必要な筋力。
やりたいことがたくさんできてしまって、時間を自由に使える身ではあるものの、たりなくなってる。
筋力がつけば、寝起きから動けるのではないかと考えるのだ。筋力がつけば、体力ももう少し上がるのではないかと考えるのだ。
体力がつけば、お昼寝の時間ももっと少なくてすむだろうし、効率よく動くこともできるようになると考える。
今現在の私の身体は、私がこれまでどうやって生きてきたかを物語る。
逆児で、首にへその緒を巻つけて生まれてから、どんな環境でどんなことをして育ったか。
自分で行動を選べるようになってからしてきた数々の選択。お酒、煙草、拒食や過眠。
だけではない。選ばなかったものまでもが、今の私を造っている。
これまでの年月が降り積もった結果としての体型の崩れ。
年齢を重ねて、どうしようもなく起こる変化を、今のところは受け止め、受け入れることができてはいるものの、日常をもっと快適に過ごすことのできる筋力━━ひいては体力━━が欲しい。
“価値”に動機付けられた行動
少しでも運動らしいことをしていくことで、私は何を手に入れようとしているのか?
目的はダイエット=体重を減らすこと・細い体型になること、ではない。
目指すのは、しなやかさ。
野生の動物は、私にはとても美しいものにうつる。
特に猫化の、豹。
なぜだろう? 想ってみたときに、真っ先に思い浮かぶのが、走る姿。躍動感にあふれた、しなやかなフォルム。
それは引き締まった筋肉がゆえ。
高望みはしない。
けれど、欲しいものは手に入れるつもり。そのための努力を、できる範囲でしていくつもり。
私が価値を置く、自然で相応な美。
今とこれからの私にとっての身体の健康は、ひいては生命力を高めあるいは維持していくことの上にあるものなのだと気づく。
豹のように、とまではいかずとも、自身が満足のできるしなやかさが欲しい。
これは、私の上位価値である “心地よさ” につながっている。
動く生き物としての歓喜
冬眠から醒めたかのように、活動してる。体を動かしてる。そりゃ、へばりもする。長いお休み。いきなりフルスロットルはどうかと思う。心身知。バランスがとれるのは、まだまだ先。
— nao@NyanChest (@nao_nyanchest) 2017年5月29日
長い冬眠から醒めたかのように。我ながら言いえて妙だと、気に入っている。新しい習慣になりつつある、ジムへ行くこと。
毎時5キロで正味30分になるように歩く。
たったそれだけでも、これまで動かしてこなかった身体は変化する。
身体が、動くことを欲している。疲労を感じもするのに、身体は動きたがっている。
動物なのだなと想う。動く生き物なのだと。
耳にイヤホンをはめて、軽いストレッチから始める。
大きな鏡がある、というだけで気合いが入るのは、幼い頃習っていたバレエのスタジオを覚えているのだろうか。
ルームランナーでのウォーキングは、最初の3分を時速3キロで始める。身体全体を感じるようにして、動きにくさや痛みのあるなしを確認する。
身体に意識を向けていくのは、私の日常生活においてあまりしないことだ。
音楽が一曲終わるぐらいで3分も過ぎる。毎時5キロまでペースを上げる。
10分ほども経つと、心が静まってくる。
私たちの脳は24時間鳴り止まないラジオ━━しかも混線した━━のようなものなのだ。身体に注意を向けていくことで瞑想にも似た、思考が流れていくままに眺める状態になる。思考から離れることで心が静まって行き、ふときづけば、とても気持ちがいいと感じている。
考えることが趣味の私にとって、貴重な時間。
さらに10分が経過した頃には、ノッてくる。身体が楽しんでいるのがわかる。
わきあがる歓喜。ただ歩いているだけで。
音楽と、思考の波の静まりと、単調に心地よいペースで続けられる動き。
身体が歓喜する。
動く生き物として、リズムと一体になる。
どこまでも行けそうな気がする。
しかし、忘れてはならない。モノである身体には限界がある。延ばしてはいけるものだけれど、少しずつなのだと。
正味30分ほど、音楽のきりのいいところで毎時3キロに落とす。一曲分歩いて終了する。
我にかえる時だ。
報酬
気分がよくない日がある。これといった原因も思い浮かばないのに、気持ちがよくない日が。
ジムに行くようになってわかったのだけれど、身体の不調が心を引っ張っていることがある。
そういうときは、運動するとサッパリできるのだ。
同一化・脱同一化というのは便利な概念で、身体に同一化することで、気分がすぐれないと感じている部分から脱同一化するのだと説明することもできる。
すべてを心という側面から説明づけようとする必要もないよね?
わきあがる歓喜という報酬。それが欲しくて今日もジムに行ってきた。6キロで歩けるようになった。
それでいいじゃない?