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学ぶこと。可能性を拓いていくこと。

おそらくは、すべての学びがそうであるように、学べば学ぶほどに「わからない」ということが、わかってくる。

以前「心理カウンセラーです」と自己紹介したら、怖がられたことがある。
いわく「なんでも見透かされそう!こわい!」
その場では、違和感を感じただけだったのだけれど、改めて考えてみたい。

たいていの人は超能力者ではない

心理カウンセラーは、人の心の内がわかるのか?
Yes でもあるし、Noでもある。

Yes の部分では、心のしくみを学んでいること。
例外がないとは言えないが、多くのばあいはこんな傾向がある、というのを知っている。

No の部分では、人の心はそれほどに単純ではないし、学べば学ぶほどに「わからない」がわかってくるということ。
人の心を、知識・学問として学び、自分の心と向きあう実践を通して、ある種の謙虚さを身につけるのかもしれない。

ポイントはどこか?
カウンセラーがみるのは、これだけ。
その個人を苦しめているポイント、困っているポイント、一番訴えたいポイントは、どこか・なにかということ。
「あなたは、こういうタイプ」だとか「あなたは、こういうヒト」という見方とは、違う。そうした断定は、タブーですらある。

少なくとも私が学んだ限りでは、人には、人のすべてを知り、理解することはできない。
自分自身や誰かのことを「こういう人だ」と断定するとき、私たちはその個人の一面をしか見ていない。
表に表れる行動から、あるいはまったくもっての推測から、私たちは人間を判断する。
その個人の頭の中、胸の内を、透視するなど、ほとんどの人にとって無理なことでしょ?
その個人の心という宇宙を、私たちは見渡すことなどできない。
これをすぐに忘れてしまい、考えてさえみないことも多い。もちろん、私自身もね。

人間だもの完全じゃないよ

「見透かされそうで、こわい」この言葉の意味するものは、「見られて・知られては困るものがある」なのかもしれない。

人には誰しも、隠しておきたいものがある。自分で「悪い」と思っている部分、あっては「いけない」と思ってる部分。

カウンセリングを学び、自身の心と向き合ってみるとわかってくるのが「そういったものは、あって当然なのだ」ということ。また、それらは、本人の「悪い」「いけない」という思い込みでしかないのかもしれないということ。

ねぇ、私たちは、誰もが不完全なんだよ?
不完全だから、私たちは神でも仏でもなく、人間なんだよ?

断定の罪

自分のこと、あるいは誰かのことを「こういうヒトだ」と思うとき、私たちは人の可能性を阻害する。「こういう」に当てはまらない“部分”を見なかったことにしたり、否定したりする。

嫌いな人のことを考えてみると、わかりやすい。
その人が、たとえなにか素晴らしいことをしたとしても、素直に「いい」と評価しづらかったりしない?
よっぽどのことがないと、肯定的な評価「見直した」を与えることができなかったりしない?

一般によく云われる『ヒトのことはよくわかる』は、ある側面において、勘違いかもしれない。
カウンセラーは、人をカタにはめてはいけないのだと肝に銘じている。
カタにはめること、「これ」と決めてかかってしまうことは間違いの元だし、可能性の排除になる。
カウンセラーにできることがあるとすれば、あれそれの知識を基に「もしかしたら、こういう傾向や部分があるのかな?」とアタリをつけること。

自分で「嫌い」と思ってる“部分”、自分で自分の「悪いところ」だと思ってる“部分”は、自分でそう決めてしまってるだけなのかもしれない。
決めてしまうことで、私たちは自分自身の可能性を閉ざし、檻の中に閉じ込める。
誰に、こんなふうに人を裁くようなことが許される?

もし「私は性格が悪い」と決めてしまったら、いつも性格の悪い私でいなくてはならない。
私の優しさや、あたたかさや、情に深い“部分”は、どうなるのか?
断定は、善い“部分”たちを殺すのかもしれない。罪でなくて、なんなのだろう。

私が願うのは、それぞれが自他に対し「そういう“部分”があるよね」という見方を癖づけしてくれること。

私には、冷たい“部分”がある。私には、高飛車な“部分”がある。私には、性格の悪い“部分”がある。
自分のことをそんなふうに考える。どんなに嫌いで悪いと思える“部分”だって、私の丸ごとではない。
冷たさが、私ではない。高飛車が、私ではない。性格の悪いのが、私の丸ごとではない。
こんなふうに思ってみると、別の“部分”が生きる・活きる余地を与えることができる。

心を学んでいくことの意義

私たちは、自分自身についてすら、ほとんどわかっていない。
意識して、観察して、分析して、深く掘り下げていくほどに、豊かな可能性を発見する。
発見は喜びだ。
人は、自分は、まだまだ未知の可能性に溢れていると知る。

人間の内側に、よいものばかりを見つけられるわけではないね。特に自分観察を始めたばかりの時期には、悪い・嫌な・ダメなところばかりが目につくかもしれない。
でも、思い出して欲しい。私たち人間の本質は、善であり美であり愛だ。
悪い・嫌な・ダメなところは、自分でそう決めつけてしまっているだけかもしれないし、単に未発達なだけかもしれない。
私たち人間の本質は、善であり美であり愛だ。そう実感できるまで、観察し分析し、自分自身に対する理解を深めていって欲しい。

自分の内側に見つけたもので、深く傷つくようになったなら、やっと入り口に立ったところかもしれない。

どうか、覚えておいて。
見つけたものは、自分自身の一部分でしかない。
そうした未発達な“部分”を見つけられたなら、可能性は拓かれる。
それらは、可能性の塊。これから昇華し、本来の姿を取り戻すものたち。

自分を観察し、分析し、学んでいく意義は、ここにある。

生きているという奇跡

刻一刻と変わっていく自分自身に気づいたなら、毎日はとても豊かだ。
夫婦ゲンカの最中でさえ、学ぶことは多い。テレビゲームをしていても、家事をしていても、眠りにつく瞬間までも。

私たちの内にあるサブパーソナリティたちは、とてもとても豊かだ。

私たちの誰もが、その内側に神秘を抱え、生きているという不思議。
こんな奇跡に、ときには気づいてもらえたらと願う。



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