いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
数日ぶりに、すっきりと晴れた朝。
犬を膝に、ブラッシングしながらの穏やかさと静けさ。
外が静かであるだけでなく、私の内側もまた。
眠たげな犬に、ブラシをあてる。右から左。右から、左。
ゆっくりとした反復行為に、私の内側からこんこんと湧いてくるものがある。
湧き水のようなそれを感じていると、穏やかさとぬくもりに満たされる。
今ここに在れば、なんのうれいもなく。
恐れは過去から忍び寄る。
不安は未来からの使者。
恐怖に直面してもいない今、なんのうれいもない。
いつもそうならいいのにね。
いつもこうなら、生きることは、もしかしたらつまらないのかもしれない。とも想う。
ぬるま湯に浸かるような、と表現される状態なのかもしれない。
それを心地いいと思うこともあるだろうけど、私は飽き性だ。
いや、お湯だって、一定温度に保たれるとは限らない。
幸福感、と言ったって、グラデーションなのだし。
かつて一度だけ、これ以上もないほどの幸福を感じたことがあった。
祈りのなかで、私は現実世界にいなかった。
まったき幸福。
おそろしさに、我に返った。
人間が、生きて現実に体験するような類いの幸福感ではない、と。
私は生きている。
生きることは━━それがどんなに善いものであったとしても━━、ひとつきりの感覚にのみ染め上げられることではないのだと思う。
永続的にその状態にあるのなら、それは死なのではないか?
おとぎ話は「いつまでも末長く幸福に暮らしましたとさ」で終わる。
終わりだからだ。そこで時は止まる。
物語が続くのなら、英雄たちはまた旅に出る。
そうでなければ、王国は衰退していく。
生が続くのなら「いつまでも」は、ないのだろう。
私たちは変化し続ける。これは、肉体を有する、モノであることの定め。
苦しさやつらさも、ずっと一定の状態で続いているわけではないんだよ。たとえ永遠のように感じ、思えたとしても。
今ここに在ればなんのうれいもなく。
留まり続けるとは、固定ではない。刻々と変化していく、その変化とともに在ることだ。
私たちは動き続ける。
いつまでも、末長く幸せに暮らしましたとさ。
死に憧れるように、変化のない状態に憧れる気持ちもある。
しかし飽き性であることで、私は生きている。
犬の散歩に出かけよう。