2024年のとある日に 泣きたくて
寒いときには犬がよく歩いてくれる。
私がスタスタと歩く速度でテッテッテと快調に歩いていた犬が、急に姿勢を低くした。足取りも慎重に。なにかと思って見ていると、落ちていたフライドポテトの横を素通りした。
このコは鼻が効くんだか効かないんだか。
気温は一桁。おまけに曇っていて、きっとすごく寒いだろうと考えた。だから現在持っているなかで最も厚いコートの中にさらに、ウルトラライトダウンを着て出たんだ。ネックウォーマーと、しっかり耳が隠れるニット帽も。
去年1月末から始めた禁煙のおかげで代謝がよくなってるのか、それとも更年期でホルモンバランスが崩れているせいか、あるいは両方とそれ以外の理由もあるのか、よく汗をかく。
こんな寒い日にも。
かなしい……
うつむいて歩いた。
ここ数日、とてもかなしい。
心がたぷんたぷんと波打っている。
見ていたドラマのせいだろうかとも想う。悲しい物語だったからなのではなく、心を動かされたからだろうかと。
だったとしても、それは要因のひとつなのかもしれない。要因や理由なぞ、本当はどうでもいい。―――ここに、泣きたい気持ちがある。このところずっと、泣きそうになっている。―――事実はそれだけで、その事実の方が大事なんだろう。
自分を抱きしめる。
近くに、海外の名門パブリックスクールができた。できたての新しいモダンな建物。門の前にカフェの看板があるのを見ていたら、自転車で来た女性が犬に微笑みかけてくれた。彼女は門の内側に自転車を止めると、スクールの方へ向かって行った。
カフェができたのは、スクール内だろうか?などと思いながら目をやって、身の内に強烈なあこがれが湧くのを意識した。
私が見たのは、なんだったのだろう? ―――大きな窓。壁が前面窓で、それが2面で、その向こうも見えた。その向こうも、前面窓で、開放的な作りの建物で―――ホテルのロビーのような雰囲気で、ソファとサイドテーブルに乗った照明があって―――私はなににあこがれたのだろう? あの静けさだろうか? 整然としたかんじだろうか? 高級感だろうか?
混乱したのにも似たような気持ちで、考えながら歩いた。
犬が思いがけない方向へ行こうとしていて、そちらへ行けば相当な距離になるなと考えた。相当とは言っても常日頃よりもという意味であって、行ったことがないとか行けないという距離ではない。だから、犬の好きにしてもらった。
たくさん歩くのは、私たちには良いことだ。
うつむきぎみに歩く。
自分がうつむきぎみに歩いているのに気づき、悪いくないと想った。絵になりそうだ。ドラマのワンシーンのように。
また泣きそうになる。私はいったいなにを望んでいるのだろうか。
これは、せつなさだ。―――やっと気づいた。かなしいのではない。せつないんだ。せつなくて、泣きそうになってたんだ。
しあわせじゃないから、悲しいんだと思っていた。悲しくて、泣きたいんだと。
そうだったのかもしれない。でも、少なくとも今日は、今は、そうじゃない。せつなくて、泣きそうになってる。
なにがせつないのか? わからない。
せつないって、なんだろう?
これが“せつない”というかんじなのは、わかる。だけど、“せつない”がなんなのかはわからない。
心で感じるものと頭で考えるものには、隔たりがある。時にまったく異なっていたりする。少なくとも私はね。
もっと密接に結びついたならば、解離は減るのだろう。
時として、感じるかんじを頭で考えるのは無駄なようだ。無駄というのも言い過ぎか。語弊があるな。
心で感じるものを言葉にするために頭で考えるのは有用で有益。最終的にはそこへもっていければいいなと想う。だけど、ただ感じるだけでいいときがある。そう、感じるだけでいい。それの方から、教えてくれる。―――これがかなしみでなくせつなさだと思い浮かんだように。
言葉にできるのは、強みなんだ。
こうして言葉にしてみて、してきて、それが教えてくれた。『まだこんなことをやってるのか』と。
まだこんなことやってるのか。そう思い浮かんだら、涙が流れた。
まったく、心は理不尽だ。理屈ではなくダイレクトで、そのダイレクトさにいつも息ができなくなるよう。
私は私が望んでいるものをわかってる。だって見てるじゃないか、そのイメージを。
はっきりと見えているそれを手に入れられてなくて、だからせつなくて、泣きたくなってるんだ。