快適さと幸せと健康であろうとすることと

2018.7.20

例年よりも暑いと感じられる夏。熱中症で亡くなる方のニュースも目にする。
体温と同じ気温。
今は都内から離れた所に住んでいて緑も多いのだけど、開けているぶん日陰がない。周辺は綺麗に整えられ、アスファルトやタイルやコンクリート。照り返しは強烈だ。

うちには1年中、毛皮を着てるコがいる。

20180720siva

5時すぎに目を覚まし、どうしようかと思う。
曇りない晴天。パワフルな太陽。見るだけでスッキリした気持ちになる空が、犬の散歩に行くのをためらわせ、もっと早く起きられなかったのを後悔させる。

ここのところ、なんとなく調子がよくない。身体というより気持ちのだるさを感じてる。気持ち、心の状態には、訓練してきてるのもあって自覚的になってきてるけど、自分の身体を把握できていない。
自分の身体にさえ鈍感なのに、同類ですらない犬の状態がわかるだろうか。少しの変化を見逃してしまうのは、命の危険に直結してると思ってる。
このコの命は、私の責任なのだ。主人はよく世話をしてくれてるけれど、長い時間を一緒にいるのは私なのだ。

シーズー犬の原産地はチベット。雨が少ない高原と聞いてる。つまり、カラリと涼しい所。たれた耳、アンダーコートに覆われた体は蒸れやすい。湿度が高い日本の気候に適してない。そういうコがうちにいるのだというのは、肝に命じてる。
モコモコとした毛皮は、触れて気持ちよく、見てかわいらしいのだけど、暑い季節には障害となりえる。2年目の夏に、ひらたく言えばカビ、皮膚病にさせてしまったのを重く受けとめてる。
冷房のきいた室内にいればいいのかと思ってみたのだけど、なんとなく、そういうわけでもなさそうだと感じてる。人間の私だって、調子がよくなくなってるし。

それなりに元気でいればいいとは、私は、人間にも犬にも思ってなくて、それなりに健康であって欲しいと思ってる。
私の言う健康とは、WHOの基準を指してる。

健康とは、完全な 肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。
世界保健機関(WHO)憲章

上記の引用元ページにある『世界保健機関憲章前文 (日本WHO協会仮訳)』が興味深いので、ご一読いただくのもいいかもしれない。
単に「病気ではない」というのみならず、私の言葉だと「快適であること・幸福である」ことが健康を意味してるのだ。
敷居は高いね。でも、不可能じゃない。

健康になろう、健康でいようとすることは、日々の努力を必要とする。幸せって、なって完了、はいおしまい、ではなくて、努力していかないと得られないし維持できないものなんだと思ってる。
こう言うとすごく難しいことに思えてくるけど、もっとかんたんに言えば、少しでも快適にしていこうとあれこれすることなんだと思う。

暑くなく、寒すぎない部屋の中にいようとするにも、自分がどう感じているのかに気づく必要がある。エアコンの『自動』ボタンをピッと押してお任せしておくだけでは、快適は保てないんだって、数日前にわかった。
変化に気づくこと、状態や反応に敏感であろうとすること、意識すること。幸せで快適で健康であろうとするのは、けっこう手間がかかってめんどうなことなんだね。

ちょっとずつでも、できることをしていこう。
犬をトリミングへ連れて行く。毛皮を短くして蒸れないように、少しでも暑くないようにしてもらいに。
ほんのちょっとしたことの積み重ねで、快適さでき、幸せを感じることができ、健康になっていくのだと思う。


WHOの健康の定義とともに、Wikiに興味深い記述を見つけた。
『どうしてジェイソンは病院にいるの?』寓話から、私たちの健康は個人のチカラのみでなく、社会的な力添えも必要なのだと教えられた。

健康の社会的決定要因

つれづれ,暮らし,季節

Posted by nao