街の朝、犬が教えてくれた傍観者の贅沢

内的に調和した状態のことを『コヒーレント』という言葉で記した人がいた。
本はまだダンボールに収まっていて、確認できたら、また別にお話ししようと思う。
比喩的な意味ではなく、物理的に胸のあたりの痛みと苦しさを感じて、「コヒーレント」と、思い出しただけ。

愛犬が教えてくれた「立ち止まれ」

犬が歩かない。喜んで散歩には出るのに、さまざまなものに気をとられ立ち止まり、見たり聞いたりしている。
しばし待って、私は歩きだそうとするのに、ストライキ決め込む犬。
ここで思う。散歩だからといって、歩かなくてもいいじゃないか。どこかに座り、周囲を眺めるのもまた、いいじゃないか。折しも今日は気候も快適で、この辺りの歩道には椅子がたくさんある。

犬を抱きかかえ、あれと決めた場所まで連れていった。
飽きるまで、座っていよう。

朝のまだ静かな時間。駐輪場へと自転車を走らせる人々、スーツ姿で足早に駅へ向かう人々、まだまばらな朝の風景を眺めていた。
目の前には整備された清潔な緑。タワーマンション。
私はそれらを眺めるという、贅沢な時間を、愛犬とともに過ごす。

内側に、静けさが戻る。
忘れていたことに気づく。
私のもつ資質のなかでも、私が最も気に入っているもののひとつである、静けさ。

「立ち止まれ」犬が教えてくれた。
やだな、これが脱同一化じゃないか。

変化に対応するまで

「たいしたことをしてるわけじゃないのに、どうしてこんなに疲れるんだろうね?」主人の顔を見ていたけれど、半ば独り言。

これまでと現在の、生活リズムの違いを想った。
のんびりと家にこもり、お昼寝していたこれまで。
日に2度くらいは「ちょっとそこまで」家を出入りするようになった現在。
引越しで環境が変わり、日々の行動が変化するのも自然なことだ。これはこれで、楽しく感じられているし、よいことだとも思っている。

変化には、適応するまでの時間がかかる。
冬の寒さがやわらぎ、春から初夏へと気温が上昇する。1日ずつ、少しずつ、暖かくなっていってくれるとありがたいけれど、そうでもない。
昨日は風が強く寒いと感じるぐらいかと思えば、今日は初夏の陽気だとか。
物理的に、体に負担がかかる。

心も同様に、ほんの少しの変化でも、ていどの差こそあれ、いわゆるストレスがかかる状態になる。
余談だけれど、気がつく範囲の “心” より、深く無意識へと変化が届くにはかなり時間がかかることもある。月単位なんてざらなことで、年単位なこともある。

同時にある “静” と “動”

新しい環境での生活から、刺激を受け取るままにしていた自分に気づく。
過敏にまではなっていないけれど、今という瞬間が身体に溜まるままに来てしまっていると。

環境という外的刺激を、受け止めるのか、受け流すのか。
味わい消化、吸収し、自分のものとし、昇華させるやり方だってある。

外的要因は、ときとして選べないし、どうにもならないものでもある。
けれど、内的なものは、私しだい。
内部の静けさは私がどこで何をしていても、創りだし、あるいは取り戻したり呼び戻したりして、保持するのも可能なのだ。

忘れていた。
外にあるものの目新しさや楽しさや興味に気をとられ、内を忘れていた。

変化より “統合”

外の変化に対応し適応するまで、私は時間がかかる。

否応なく、意識せずともガラリと変えている行動はある。
それに伴って、心までもを変える必要があるのか? ないばあいだってある。

きちんと気づいて、考えて、選択をしたいのだ。

新しい、私にしては “動” 的な生活を、快いものとしてすんなりと受け入れた。
一方で、内側には “静” を取り戻したいと望んでいることに気づいた。傍観者であるという贅沢を、いつも味わっていたい。

さあ、気づいたのだから、統合していこうか。

『変化は絶えず起こっており、必然である』
ソリューション・フォーカスト・アプローチの、発想の前提を思い出す。
変化は必然ならば、議論の余地もないのかもしれない。ただ、流れに乗ればいい。
心地よく、自分にとって最適な形で流れに乗れるようにするための、統合を心がければいい。

新しく自らを調整し、創造していくこと。それが統合なのだと思っている。
傍観者であるという贅沢をもって、自らを生みだしていける。

Siva、君はずいぶんと素敵なことを教えてくれるんだね。