コントロールとは、よりよく表現できるようにすること。

『コントロール』という言葉が嫌いだった。押し殺すことや、いいように操る、というようなイメージを持ってたから。
往々にして、言葉を雰囲気で解釈している。辞書を引いてみると、理解できていない言葉が多いことに気づく。


サブパーソナリティ(=自分の様々な部分: サブパーソナリティ1|私の内側にいるたくさんの私 をご参照ください)を育てるには、認め、表現を許すのが最も効果的だ。
初めて知ったとき「な、わけないじゃん」と思った。
自分の嫌いな部分を認められるわけがないし、言動として表すなんてとんでもない、と。

認める、の意味を間違っていたのもある。
認めるとは、それでよい、ではないんだよね。

言動として表すのも、たとえば怒りなら爆発させて誰か・何かに投げつけることしか知らなかった。
たしかにそれは、まずい。
そうでない、他のやり方があるってことすら思いつかないあたり、いかにもサブパーソナリティ的だなと、今なら思う。


コントロールとは、よりよく表現できるようにすること
止めることじゃないし、無理やり操ることでもなかった。
言葉の意味を取り違えると、思わぬ間違いをしでかすんだな。

未発達なサブパーソナリティは、人間の子どもとおんなじように、表現のしかたが下手。この下手さ加減が、否定的な表現として表れる。
怒りなら、破壊的なやり方に。憧れは、妬みに。
サブパーソナリティたちがそこに在ることに気づき、ただ「在るのね」と存在を認知し、本当に表現したいものを探っていってみると、人間の本性は善であり美であり愛であると教えてもらえる。
怒りは、悲しみかもしれない。

サブパーソナリティたちが、よりよく表現していけるよう心がけていると、すくすくと育っていく。
肯定的なやり方で、自分自身を表現できるようになっていく。

子育てと似ているんじゃないかな。
気にかけて把握し、世話をし、ときには向き合って話しあい、理解し、見守る。

サブパーソナリティたちが、ここに在ると認めることの大切さ。


他者に受け入れてもらえない。恐れて、私たちは自分を押さえたり殺そうとしたりする。
そうじゃなかったんだな。
もし他者に受け入れてもらうことが目的ならば、表現の、その表し方を工夫する。必要なことは、こっちだった。
言動に表すのをやめるでなく、どんなやり方をするのがいいのかを模索すること。

だけど、他者はたぶん二の次で、本当のほんとうは、ただ表現したいだけなのかもしれないね。