我慢の意味を間違えてた
雨が降ったらしい。目覚めたら、窓の外は真っ白にもやがかかってる。
洗ったばかりの犬に汚れて欲しくなくて、散歩に出ないつもり。かわりに部屋の中で遊ばせながら、我慢って結局身につかないものなんだなぁと考えてた。
感じ切る。子どものころには、しぜんとしていたことを、大人になっていく過程でしなくなってしまう。
「泣いちゃダメ」「怒っちゃいけない」「我慢しなさい」親の立場でそう言うのは、しごくまっとうなことだと思う。大人は周囲を気にすることができ、他者を気遣う。胸中に「この子のせいで私が悪く思われる」との恐れがあったとしても。
子どもは自分しかない。嫌なら泣く。全身全霊をかけて、抵抗を表現する。心の側面から言えば、子どもには自分が感じるものを自分の内に抱えるチカラが育っていない。まぁ、大人になればしぜんと身につくものでもないのだけれど。
我慢とはなにか?
子どものうちには、まだチカラがなくて抱えることのできない、自分の感情。大人になるにしたがって、さまざまなできごとを、さまざまに経験していく過程で、自の感情に慣らされていく。うん、慣れていくしかなくて、慣れさせらるていくのだろう。激しい怒りや、深い悲しみといった、強いエネルギーに。
慣れるとは、ひとつには、流すことができるようになることだと考える。
身体でたとえれば、不必要なものを排泄するようなもの。あるいは、摂取したエネルギーを活動に消費するようなものか。
私たちは、我慢というものを、やり方を間違えて覚えてきてしまってるのではないだろうか?
我慢とは、食べたものを排泄しない、エネルギーを使わずに身体にためこむ、そんなふうなやり方を当然のようにしているのではないか?
そう考えてみると、そりゃあ身体も心も壊すよねと思えてくる。
トイレに行くまでが我慢するところなんじゃない? けしてトイレに行かないのが我慢じゃないでしょ。
「待って」が、我慢の実態なんじゃないだろうか?
「待って。今ここでは泣かないで」「待って。そういうやり方では怒らないで」言い換えてみると、なんとなくしっくりする。
泣くのが悪いんじゃない。怒るのが悪いんじゃない。適切な場所で、適切な表現ができればいいんだ。
家の中でなら、大声で泣き叫んでもいいじゃない。暴れるでも怒鳴るでもなく「怒ってるよ」と伝えるなら、それでもいいじゃない。そうできるまで、待って。
欲しいものを買うには、今はお金が足りない。じゃあお金を貯めよう。貯まるまで、待って。
待ってと言うのは、私が私にする約束であり許可でもある。後でなら、そのときがきたなら、いいという意味がある。
このやり方は、フォーカシングの練習の副産物。自分と仲良くなっていくうちに、私の内のその部分が待ってくれるようになっていった。後でなら、そのときがきたなら、ちゃんとやらせてくれるんだという信頼を得たかんじ。
待つ。これも、少なくとも私は、練習してこなかったなぁと思う。
私のばあいは、40を過ぎてからやっと自分にあった待ち方をわかってきたようだ。そう、待つにも、人によってそれぞれの待ち方があるみたい。
なにかを身につけるには、自分にあったやり方を見つけるのが速いし確実だろう。
『我慢』みたいに、間違ったやり方を覚えてしまって身につけようとしてしまうと、心や身体によくないわけだ。
言葉を変えると人生が変わると言われてるのは、私はとても納得している。
自分の辞書にどんな意味が書かれているかをはっきりとさせ、不適切・不適当であれば書き直す。そうすると、しぜんと言動は変わってくるものなんだ。言葉を取り換えただけの、単なる言い換えではない。
一方で、人によってはカタチから入るとスムーズにいく人もいるわけで、とりあえず言い換えて習慣にしていくと意味を変えられる人もいる。これもまた、自分にあったやり方をするのがいいんだろう。
やっぱり、たいていのものは、自分に無理のないやり方を見つけるのがいいんだね。