昔から云われることとイマドキの情報と。
多くの人が言うことには、一理ある。しかし、イマドキは、そうでもない。
古く昔から云われてきていること、とは違う。
古く、昔から言われてきていること、は、意外と科学的だったりする。
ここで言う「科学的」とは、『同じ条件下で同じ結果が出ること』で、検証の件数が膨大であればあるほど裏付けられるということ。それだけ多くの人が同じことを繰り返し試してみた、という“事実”に基づいていることを指す。
インターネットの普及によって、ひとつのものについて、たくさんの人の目に触れる機会が飛躍的に増えた。
ここに落とし穴がある。
多くの人の目に触れているだけで、その体験が多いのとは違うからだ。
ネット上で見かけたものを「多くの人がこう言っている」と錯覚しがちで、錯覚でしかないこともある。古く昔から云われきていることとは、実証件数がぜんぜん違う。
伝えられ方、というのも考慮しなくてはならない。
原文そのままにシェアされたものではなく、尾ヒレのついたもの。
原文そのままだとしても、一部が切り取られてシェアされたもの。
これは、まるで伝言ゲームのような要素が加味される。
同じ言葉、単語でも、私たちの認知は異なる。同じ言葉を、その通りに使ったとしても、言い方に含まれるニュアンスや発音の仕方によっても、聞き手の理解の仕方に影響を与えることができる。
私たちは、事実を事実として伝えないことが多い。意図していなくとも。個人の認知で単語は置き換えられ、含まれる意味合いは個人の感情によって脚色され尾ヒレとなる。
昔から「話半分」と言うね。ヒトから聞いたこと━━今だったらインターネットで見たり読んだりしたこと━━について、「そうなの?」と疑問を持つこと━━すべてを疑ってかかれと言っているわけではない。疑うとは、相手があって使われる表現であって、疑問を持つとは、個人の内的な問題だ。━━は、大事なことだと思う。
前提条件は何か? そこを押さえないと、とんでもない間違いをする。
ちょっと前に「レンジでチンすれば文字は消えてノートは無限に使える」とかいう動画が流行り、子供が真似して大惨事になったとかならなかったとかいう話を見かけた。
あーあ、と思った。子供なら、やりかねないことで、注意しなければならないことだけど、私があーあと思ったのはそこじゃない。大人たちの反応だ。
インターネット上には嘘“も”ある。これは、事実。事例の「レンジでチンすれば文字は消える」を子供に対し「嘘」と言っていた人がいたが、これは正しくないんじゃないかな。
動画で使った、ノートの文字はフリクションで書かれたものでしょ? だとしたら、適切に温めれば、消えるだろうね。決して「嘘」ではない。
私たちは、こうして事実を嘘と決めて教えてしまうこともあるのだ、ということに、あーあと思った。
ヒトゴトではなく、自分自身もしていることだろうから。
表現には気をつけなければならない。これは、発信者のモラルの問題とも言える。一方で、受け手の側にも責任はある。理解の仕方に気をつけなければならない、という責任だ。
極論になるけれど、私たち誰にでも『認知の歪み』がある。自分の理解の仕方に歪みがあると、知っておくことは重要だと思う。それが「イケナイコト」かどうかという問題ではなく、歪みがあるからこそ「この理解の仕方でいいのだろうか?」と疑問を持てるからだ。疑問を持たないでいると、情報過多と云われる現代で、簡単に被害者になりかねないのではないかと考えている。
私の信条のひとつ━━避けたい価値のひとつとも言える━━に、「被害者でありたくない」というのがある。誰かや何かのセイにしたくない、とも通じるもので、被害者であるということはパワーの譲渡だと考えている。
自分を譲り渡してしまうこと。自分には責任がない、力がない、と思ってしまうと、なにか自分にとっての不都合が起こったときに対処できなくなると考える。
主体的であろうとすることは、決して厳しさだけではなく、自分を幸せにしていこうとする行動につながっていくと考えている。
…いつか、適当な事例を見つけたとき・思い出したときに、まとめてみよう。
効率よく考える力をつけたいね。
今、ブログをする人がものすごく多い・増えているのだと聞く。良いことだと思う。文章を書くことは、思考を整理することでもあり、考えるトレーニングにもなりえるからね。