元気でいるうちに話しておきたい死の話と介護の話

2016.12.15

「Nyanが死んじゃったら、かなしい?」そんなふうに、主人とは死について話す。
子供のいない私たちにとって、年老いてからの暮らしをどうするかは、私たちふたりだけの問題として横たわる。
今はまだ「いつかは来るであろう先のこと」で、現実味を帯びていないぼんやりとしたものではあるのだけれど。
「あたなが死んだら…と思っても、なんともないけど、Siva(愛犬)が死んだら、と思っただけでじわっと涙出る」
「Siva以下?」
「実感がわかないんだよね。Sivaは10年ぐらいでしょ? 事故とかなければあなたより先だから、現実味もある」

『無菌室に入れられた“死”』という言葉を、いつかどこかで読んだ。
昔、人は自宅で家族に看取られて死ぬことができた。現在は、人は病院のベッドで死ぬ。自宅という日常の場から、病院という場所に限定された死。結果、死を目の当たりにすることが少なくなり、口にするのも憚られタブーとされた。まるで無菌室に隔離するかのように。
こんな内容だったと記憶している。

それって、ナチュラル?
死を目撃するのが怖いとか嫌だとかいう気持ちは想像できるとしても、老衰の死は自然なのに。

70代に入った母から、遺言状を作っておいてよと言われた父。折しも、父の周りで亡くなる人が出始めていた。父自身が一番ショックを受けていたのが、高校時代からの友人が亡くなったこと。
ぐんと身近になった、死。
じゃあ、と、エンディングノートを用意した。父と向かい合って、話し合いながら記入した。そのなかに、介護が必要になったら誰にどうして欲しいのか?があった。
「どうでもいい。任せる」
「どういう意味?」
「迷惑はかけたくない」きっぱりと言い切った。
聞き捨てならなかった。
「あのね、パパ、子供に迷惑かけたくないって気持ちは嬉しいけど、迷惑はどうしたってかかるんだよ。でも、迷惑って一言で言っても、いろんな種類があるよね? 例えば、お金の迷惑もあれば、時間とか手間とか。パパが言ってるのは、どういう迷惑のこと?」
父は、きちんと訊けば、きちんと考えて答えてくれる。
「金もそうだけど、体に負担がかかったり、気持ちにも負担をかけたくない」
それを聞いて、なんだか泣きそうになった。けれど、ちゃんと聴いておかなければと思って、半ば説得に入った。
「そっか、そう思ってくれるのは嬉しいよ。心身の負担にならないことが第一で、こちらの事情によって任せてもいい、ということでいいかしら? じゃあ、誰に看てもらいたい? あくまでパパの『希望』だよ。今はってことでいいし、できる・できないは私たちの事情もあるから別として、パパがどうしてもらったら『いい』のかを、パパの子供として聞いておきたいの」
うなずく父に「誰に看てもらいたい?」と、再度訊いた。
やっと、父は、私に看てもらいたいと言ってくれた。そうだろうと、わかってはいた。その後、父が言い訳のように付け加えた
「お前さんなら、こっちもわかってるし、こっちのこともわかってから(気持ちを)ぶつけやすい」を聞かずとも。
私は父に育てられた。私が考えていることは父に話しても来たし、父が考えそうなことはある程度理解できる。それでも、確認しておきたかった。父の気持ちを。

カウンセラー養成講座の最終日、私たちは『死の瞑想』をした。イメージワークのひとつで、ガイドの誘導するのを聞きながらイメージをしていくもの。母親のお腹の中に入るところから始まる。胎内で育まれ、生まれ、生き、死を迎え、死の後までを体験した。
最後を締めるにふさわしい、感動的でなおかつ、これからを考えさせられる優れたワークだった。

死を見据えることは、意志的な生き方を選ぶことにつながる。どう死にたいかを想像することで、それまでに何をしておけばいいのかがわかってくる。
現在足りないものは何か。何が必要あるいは不必要なのか。自分はどうしたいのか。望みは何か。どうしたら納得して充実した死を迎えることができるのか。
やがて必ず訪れる未来の死の準備を整えようと考えることが、今をどう生きるかを決めることにつながる。
死を無菌室に入れたままにはしない。
私たちは死を選べる。私は、そう信じている。事故や病気による死ではなく、自然に迎える死なら。毎日の生き方によって、死に方を選ぶことができる。そう信じる。

「年功序列で、あなたより私の方が先だから。私の介護ができるよう、あなたは健康でいてね」
主人にお願いしている。