モデルは私ではない
自分はなにを、したいのか。
自分はなにを、好きなのか。
自分はなにを、いいと思うのか。
私らしさという自分軸は、これらのものでできている。
わかっているのに、何かのたび、見失いそうになる。
なにを、どこを目指すのかなんて、わからない。少なくとも、今はわかってない。
先のことがわからなくても、今ココで、自分がいいと感じるものだけは、わかっていたいと願う。
かつて、思春期の私に、父は言った。「憧れのアイドルとかいないのか? なりたい姿は真似するのが一番速い」
私は外にモデル(=見本)を持ったことがなかった。いいなと思うことはあっても。
その人は “私” ではない。
本に埋もれ、Webの海を泳いでて気がついたのが、自分軸の大切さだった。
おなじ一つのことについて、あの人とこの人で言ってることが違う。
どっちを信用したらいいの?
混乱した。
何かについて、多くのばあい、全く正反対と思えるような意見がある。
どんな人が、どんな立場から見るかで、物事は変わってしまう。先入観や思い込みによる間違いもあるし、単に情報が古いだけのこともある。
見極めと選択。
どんな人が、どんな立場で、どんなことを言うのか。
言ってることを、私はどう思うか。
私に置き換えたり、応用したりができるものなのか、私はそれを信じられるのか?
見極め、選択するためのモノサシが、私自身が何を好きで、いいと思い、したいと思えるかだ。
自分の軸にあっているかどうか。
自分らしいかどうか。
誰か特定の人を、私が目指すモデルと思い決めたことはないけれど、行動のモデルはたくさんある。「ああ、この人のこういうところ、いいな。私にはないな。私もやらなきゃ」と思う。
そして、ハッと気づく。やらなきゃ?
もう軸を見失ってる。私は、それをしたいのか?
やりたくないと思ってる自分に気づく。罪悪感を持つのだけれど、考え直す。
その人は、私ではない。
私は、私でいい。
これが言えなくなると、私は、ヒトに対して「あなたは、あなたでいい」を言えなくなる。
「なりたかったのは、この私」あるとき、自分の内側で、そう言えた。
外部にモデルを求めてこなかったのは、私のような自分軸を見失って「やらなければならない」と思い込むような者にとっては、よかったのではないかと思う。
「なりたかったのは、この私」
誰か他の人になろうとしてたら、言えなかったのかもしれない。
誰か他の人になろうとしてたら、自分を信じられなかったかもしれない。