紙切れ一枚のこと

2016.8.21

信頼

 結婚て、なんだろう? 時々、不思議な気持ちになる。

 私たちは結婚式をしていない。
 儀式というのは、はっきりとした区切りの役割もあると思う。両親や親族、社会に対する宣言のようなものであり、当人たちにとっては気持ちの切り替えが容易になるのかもしれない。してないから、わからないけど。していたら、気持ちに区切りがついて、結婚とはこういうものだとわかったのだろうか。

 主人とは、離れていられなくて、一緒に住んだ。はなから、結婚式どころか入籍もしないつもりでいた。
 私にとって最もたいせつなことは、2人で一緒に居ることだった。気持ち、一緒にいたいという気持ちを最もたいせつにした。

 私は結婚そのものを、誰とも、する気がなかった。
 若いときに「私は子供を産まない」と決めてしまっていたので、周りの女の子たちのような、産むなら若いうちに→結婚してからでないと産めない→早く結婚しなくては、のあせりを持ったことがなかったし、そもそも結婚の意味がわからないと思っていた。
 結婚することに、なんの意味があるの? たかが紙切れ一枚のことじゃないか、と。それに、結婚するということは、負債を背負うことだと思っていた。

 父から「籍入れないのか?」と訊かれたことがある。「女の人にとっては保証だろう?」と。
 経済的な意味で言うのなら保証にはなりえないと、私は説明した。イマドキ大きな会社だって、いつ倒産するとも限らない。リストラだってある。そのとき私はもう仕事を辞めていて、確かに自分の収入はなかったけれど、二人分の負債を負う気もない。
 黙って聞いてくれていた父は「そこまで考えているならいい」と、理解してくれた。そして「お前に遺してやれるもの(財産)がないから」心配している気持ちを表してくれた。

 保証。私はその考え方が嫌いだ。私が負債を負いたくないのと同じに、相手にも負わせたくはない。
 今現実に、私に収入がないから、もう大きな口を叩けないけれど。

 結婚というのは、社会や世間に対する、ある種の証明証。それがないと、ヨソサマからは「まともな人間ではないのでは?」と疑われる。
 男性ならば、古い体質の会社では出世に響くというし、趣好が変わっているのでは?の疑惑をもたれもする。
 女性のばあいは、イキオクレのレッテルが貼られるし、なにがしかの問題を抱えているのでは?という目で見られる。
 まだまだ、日本の社会は古いなぁと感じていた。

 結婚したいと思ったこともなかった。夢みたことがなかったのもある。
 私の両親は仲が悪く、本気で離婚をしろと迫ったことがあるぐらい。子供にとって、両親の不仲を見続けることはつらい。無理して一緒にいる必要はないのにと思っていた。今でも思ってる。
 そんなだったから、結婚に対する甘い夢やあこがれの気持ちはなかった。シニカルな子供だったこともあって、「結婚は生活だ」と思ってもいた。夢をみるようなものではなく、現実なのだと。結婚=幸福だと思えたことがなかった。

 2年間の同居(同棲という言葉の響きには、なぜか抵抗がある)から、入籍した私たち。きっかけは、引越しだった。入居審査で、異性の『同居人』は「婚約者ということでよろしいですか?」と不動産仲介者に訊かれる。それを面倒に思った。
 収入のない私を、主人の扶養に入れる目的もあった。私たちにとって、結婚は便利さと税金対策の意味を持った。これは、事実。

 「籍入れてもいいよ」と言い出したのは、私だ。内心、こわごわと。
 自分の気持ちがいつ変化したのか、はっきりとはわからない。理由はわかる。信頼だ。
 一緒に住み始めてから、私の、それまでの人生で最大のピンチがやってきた。物理的な身体の、極限までの疲労。そして調子が狂ってしまった心。主人は、そばにいて支えてくれた。経済的なことのみならず、精神的にも負担を負って欲しくなくて、「私のこと、見捨てた方がいいよ」と話した。それでも一緒にいてくれた。
 それまで私は、誰かを信頼したことなど一度もなかったのだと気がついた。人に頼ることができなかったのは、信頼できなかったからなのだと。これは、私が子供のころからシニカルであった理由でもある。

 私にとって、一枚の紙切れは、私の、心からの信頼の証となった。

 入籍してから数年。まだ、数年、とも言えるし、もう、数年とも言える。私たちにとって、一緒にいることが自然すぎて、一緒でなかったときを不思議に感じる。
 いろんなことを二人で乗り越えてきた。入籍してからの方が、する前より、とてもとても幸せだ。主人は、支え続けてくれている。こうしてブログを更新するだけで「頑張ったね」と言ってくれる。こんな心根の優しい人は、そうそういないだろうと思ってる。

 結婚の意味はいまだにわからないけれど、一生をかけて探求していく価値のあるものとなった。