服はよろこびだ
もうずいぶん昔になるんだろう、”フランス人は10着しか服を持たない” という本が話題になった。
最近、読んだ。
どこかから「いまさら?」という声が聞こえてきそうだ。流行は昔のことなので、そういう意味ではたしかに「いまさら」だ。しかし”本を読む”のに、いまさらはないよね。
さて、本を読んでの私の理解した
①予算が許す範囲で質の良い服で、
②自分に本当に似合う服を
③必要な数だけ所有し有効活用する
のって、素敵だなと想った。
パンツやスカートと、トップスで10着。下着やアウターはカウントしていない。そのぐらいの数量なら、私にもできそうだしトライしてみたい。
それで、改めて「私に本当に似合う服」で「私はこういう人間だと表現する服」ってどんなだろう?と考え込んでる。
色柄やカットなどが似合うかどうかだけじゃないんだ。”私”を表現する服でありたい。もうじゅうぶんに、それなりに成熟した年齢になったからもあるし、もういいかげんに”私”はこういう人間ですと言えるくらいには自分を理解していていい時期なのじゃないかと思うのだ。だって私はやってきた―――自負しているのだから。
言葉にならないイメージ、色や動きなんかでは「これが私」と思うものは内部にあるのだけど、服のように現実的なもので外部で表現しようとするとすると難しい。というか、考えたことがなかったかも。
服は単によろこびだった。
Netflixの『クィア・アイ』という番組が好きだ。助けが必要だと推薦された人の問題を、5人の担当が1週間で改善していく。この番組が好きな理由はいくつもあるんだけど、今言いたいのはそれじゃなくて。
番組の中ではファッション担当に(たいていのばあい)おしゃれなお店に連れて行かれて、おしゃれな服を勧められたりするわけなんだけど、問題を抱えている人ってどうしてああも揃いもそろって皆自分の外見に頓着しない・しなくなってるのか。最初は抵抗を示したり、乗り気じゃなかったり、腰が引けてたりする人でも、服の魔法にかかる。試着室から出て、鏡に映る自分を見る顔が、試着室に入る前とはガラッと変わったりする。得意げだったり、満足気だったり。すごく素敵な瞬間だ。
服は、よろこびだ。
万人にこのよろこびを知ってもらいたい!とまでは思わないのだけど、知れば人生のよろこびが1つ増えるよ? 毎日がだいぶ変わるよ? とは思っている。
身に着けていて心地よく、気分をあげてくれるし、他者により良い自分を見せることもできちゃう。すばらしい。
私は こういうおばあちゃんになりたい んだ。
自由でいたい。明るくハッピーでありたい。鮮やかな色や軽やかな生地が、そういった望みを表現してくれそうな気がする。
そうか、生地や色か。書いて気づかされることって、あるね。
ここ何年かで、たくさんの服を処分した。みな、若いときのものだ。服は大切に長く着る物だと思っていた。
大切に長く着れるのはいいことだけれど、今から20年30年前のものが今の私には似合わなくなってしまった。私は大人になったのだ。体形だって変わったさもちろん。
今とこれからの私にあった服を探している。私が誰であるか、そしてどんなでありたいか、を考えながら、しっくりくるものを選んでいきたい。