「いつもありがとう」が欲しいのはなんでだろう?
「『いつもおふとん用意してくれてありがとう』って言って」と、昨夜要求した。
主人が気持ちよく眠れるようにと、ベッドを整えていて、ふと苛立ちを感じたのだ。
「ありがとう」の一言が欲しいことがある。 “いつも”~してくれて、ありがとう。そう言って欲しいのだ。
言って欲しいことは「〜って言って」と、私は主人に要求する。
言わなくてもわかって欲しいって、以前は思っていたのだけれど、今はほとんどない。言わなくてはわかってもらえない、と思ってる。だって主人は超能力者ではなく、ごくごくフツーの人間なのだもの。
しかし「ありがとう」言ってもらっても、気持ちがおさまらなかった。
一夜明けて、改めて考えてみるとあれ、なんだったんだろう?
そういえば、以前「私はこんなことやらあんなこともしてるよ。いろいろしてるんだよ」と訴えたことがあったな。
たぶん、同じところに端を発してる。
日頃から自分の気持ちを感じとるよう心がけていると、いつの間にか、自分の気持ちを理解するのがうまくなっていく。自分と仲良くなっていく。
なんだったの? 自分に訊いてみると、自然と思いつくようなかんじで応えが返ってくる。
当たり前のことは、当たり前ではないと知ってもらいたい。私の気遣いやちょっとした努力を知ってもらいたい。
…そうか、そう思ってたのか。
わかって欲しがっている気持ちに気づいたら、なるほどと思えた。
いつもならばなんとも思わないことに、ふと苛立ちを感じるとき、私のばあいは主に身体の調子がすぐれないサインが気持ちに出ているときなのだけど、ヤツアタリをする。主人に。
ひどいことをしてるなと思う。
昨夜のありがとう要求も、実はヤツアタリだった。「あなたのために、してあげてる」という気持ちを見つけた。
してあげてる気持ちがあってもいいけどね。
この気持ちはそんなに好きじゃないし、自分にとって負担になるようならば別のやり方を考えなきゃだよね。
細々した家のことって、ありがとうと言われないのは、私のしていることに気づいてもらえないのは、必要とされていないから“も”あるんだよな。
なしでもいいことを、その方が心地よいだろうとこちらが勝手に気を回しているだけなことだって、ある。
これは事実だし、それに対して「ありがとう」を要求するようじゃ、親切の押し売りだ。
自分自身ならまだしも、ヒトの気持ちや何をどう考えているかなんて、わからない。想像したり推測したりはできるけれど、想像や推測と「わかる」は違うんだよね。
相手にとって不必要でなおかつ、私自身に負担になることならば、止めてしまえばいい。
自分自身の気持ちを受け止め理解した後でなら、私はあっさりと、これまでしてきたことを止めることもできる。なんの引っかかりもなく。
だから、わかって欲しいのは本当は主人にではなくて、私自身になんだろうなぁと思うのだ。
独りきりで完結した小さなちいさな世界。
他者を想い、よかれと行動にし、うまくいけば喜びややりがいというご褒美がもらえるけれど、いつもいつもではない。
相手への決めつけや押し付けで、自分勝手に嫌な気持ちになり、思いがすれ違ってしまったりヤツアタリすることだってある。
思いやりのはずの優しくあたたかな気持ちが、貶められて「わかってくれない」になっていたことに気づいた。
相手を思いやるはずの気持ちが、相手へのヤツアタリとなって表れてしまったら、しょうもないよね。