名前は私ではない
私は、自分の名前を自分だと思ったことがない。
名前を呼ばれる。名字でも、名前でも。呼ばれれば返事をする。自分が呼ばれたのだとわかるから。けれど、その名前が私だとは感じない。
この感覚を感じている人は、どのくらいいるのだろうか。
呼ばれたくない呼ばれ方
世間には、自分が何と呼ばれるかにとてもこだわりを持つ人もいるのは事実だ。
私にもこだわりが、ないわけじゃない。
こだわりは、私個人の感情的なものでしかないということを知ってる。
私には、感情的にどうしても呼ばれたくない、呼ばれ方がある。
「おまえ」
私を「おまえ」と呼ぶことは、誰であっても許せない。
過去に呼ばれたことがあって、その人にはお願いした。
「私のことを『おまえ』って呼ばないで。『君』でも『大猫(と、その人は私を呼んでいた)』でもなんでもいいけど、『おまえ』とだけは呼ばないで」
呼ばれ方がどうしても気に入らないのだったら、個々にお願いするのがいいと思ってる。
「おまえ」だけが、どうしてこうも感情的に許せないのかは、深く掘り下げてみるとおもしろいかもしれない。これまでのところは、私を「おまえ」と呼ぶ人は少なかったし、今現在はいないし、差し障ってないのでやってない。
ただ、このことからわかるのは、感情的な何かしらの引っかかりがあって、人は自分がどう呼ばれるかについてこだわるのかもしれないということ。
選択権のない個人名・記号としての固有名詞
他のたいていのこともそうなのだけれど、引っかかりがなければ、気にならないものになる。
以前、私は、積極的に自分の名前を嫌っていた。
今現在は、納得してはいないし、好きになったわけでもないけれど「そんなもん」と思っていて、さしてこだわりがない。
依然として「自分」と感じられないだけ。
個人の最も個人的であるはずの名前を、私個人として感じられない。それでも、私は私でいられるというのは、よくよく考えてみるとなにかとても不思議なかんじだ。
選択権のない個人名を本名として持っていて、呼ばれれば違和感はあるけれど、便利に使っている。
たとえば、銀行や病院で、番号で呼ばれることがある。
「3番の方」とか。
手に3番の番号札があれば、私が呼ばれたのだとわかるから返事をするのだけれど、私は3番ではない。
私は自分の本名を、こんなかんじに感じている。
私は、私についている名前を記号のように持っている。
そんなだから、呼ばれ方は、もうどうでもいいやの感さえある。
識別のための名前
たとえば、こうしてブログを所有し書いているから「ブロガー」なのだとしても。
「ブロガー」って、響きがカッコ悪いと思ってる。
私個人が、自分以前に、ブログを始める前から持っていて今なお持ち続けている「ブロガー」のイメージの悪さが反映されている。
一般に「ブロガーと言えばあんなかんじの人」という、多くの人に共通の理解がある。
わかりやすさを考えると、もし私個人が「カッコ悪い」と感じてる「ブロガー」という名で呼ばれたとしてもかまわない。
個人の感情がどうあろうと、大勢の人に記号として理解されているものであれば、別にそれでいいのだと思うから。
他者が識別のために使う名前は、私個人の感情とは別のものなのだと思う。
呼びかけるための名前。識別のための名前。共通認識が簡素化された形としての名前。
固有名詞や一般名詞。
名前にはさまざまな種類があるのだと気づく。
分類としての名前もある。
『日本人』だとか『女』だとか。
私は確かに自分を『女』だとは思ってるけど、『日本人』なんだとは感じてない。感じていなくたって、日本で生まれ育ち、両親の国籍も日本なのだから、日本人と呼ばれるんだろうことを知ってはいる。
いずれにしろ、私にとって、名前は私個人ではない。
私の名前は、私に呼びかけてくれる人のためにある。