ステレオタイプさは武器になると気づいた。
「ヒトと違っていたい」とか考えたり、望んだりしてる時点で、もうステレオタイプ、どこにでも “普通” に転がってる証拠なんだと思う。自分のことを、そう認めたとき、自虐はなかった。ああ、そういうことか、とでも言うような納得感がある。
わりと幼いときから死にたさを抱えて、20代の後半にはもうメンタル限界で、30前後でカウンセリングに通い、その後カウンセリングを学び、カウンセラーになろうと思ってみた。
こう書き出してみると「最近よくあるタイプ」だって、わかる。
ステレオタイプって、どういうことだろう? 認めたことで、冷静に考えることができる。
それだけ多いということだよね? だとしたら、それは強みじゃないか。
同じような体験、同じような考え、同じような思い。
…いまだ、これらには胸がざわっとする━━嫌だと感じてる部分が残ってるってことね━━けど、これって、要素としては共感を得やすい。
共感? 私の中のシニカルな部分が鼻で笑う。
伝えたいことがある。
それは確かなことで、伝えるからには、伝わりやすい必要があると考える。飛び抜けて、突き抜けて、個性的で、当人しかしていないような、レアで稀な経験というのは、伝えにくいし、伝わりにくい。
そういう意味で、平凡であるということは、それだけ同じような人が多いということで、伝えやすいし伝わりやすいという武器になり得る。
人様のブログとか読んでて、時々イラッとさせられるのが「〜は私だけですよね」的な言葉。「あなただけが特別なわけじゃないから」と、機嫌の悪いときには思うし、弱ってるときならば「私もそうなんだけど…」と傷つく。
自分のこういう反応を大切にしようと思う。私と同じような反応をする人たちが、いるのだから。私が嫌な気持ちになることは、最低限控えようと自戒する。
そうか、自分はその辺にごろごろ転がっているその他大勢なのか。そう思えたとき、じゃあどんどん書こう、と思えた。
私は言いたい。私は伝えたい。私を。
なんの特別さもない、ただのひとりの人間は、思うようり想像するより意外にたくさんの人の声となれるのかもしれない。…そんなダイソレたことを考えてみる。おもしろいじゃないか。
だからといって、なにかの代表になりたいとかそういうことではないんだよね。めんどくさいじゃない?
私は私に無理なくできることで、結果的にどこかの誰かの心がほんのちょっとだけラクになってくれたらいいなぁと無責任に思ってるに過ぎない。
「それ!言いたかったのは」ってこと、あるでしょ? 自己表現のひとつとしての言語化。自己表現に必要な自己開示。これらをできるようになってきたから、あなたの代わりに、ではないのだけど━━あなたはあなたで自分の言葉を見つけた方がずっとずっといいと思うからね━━しかも誰かの代わりなんてまっぴらだし━━、たまたま私が言葉を見つけ、文章にしたものが、誰かにとっての「そう!これ!」という発見のきっかけになれたら嬉しいなと思う。
私はここで、あくまで自分を表現しているに過ぎない。これがさ、中毒性を感じるくらいに楽しくて。
私の中の良い子な部分が「それじゃいけないよ」と小さく囁いているのだけれど、しばらくは続けるつもり。
これまでしまいこんできたようなものたちが堰を切ったように溢れ出しているこのかんじは、気の済むまでやったら落ち着くと思う。