自分らしさとは何だろう?
「自分らしさ」で悩んだことはありますか? 振り返ると、私は「自分らしくいられない」ことで悩んでました。どうしてそんなことになったんだろう?
自分で自分に与えた役割を演じてきたから、自分らしい部分がわからなくなった。そんな私が、自分らしくなるまでをお話しします。
「自分らしさ」は役割にもよる
一番ひどく悩んだのは、仕事に行けなくなったとき。正確には、行けなくなったのではなく、自分で休職を願い出たのだけど。
メンタルクリニックで「あなたは自分のことをわかっているように思えます。病気とは言えません。仕事を休んで好きなことをしてください」と言われ、「診断書がないと、仕事を休めません」と訴えたら、「『適応障害』出しますから」と返ってきました。
適応障害。間違った場所にいた私に付いた診断名として、これほどふさわしいものはない、と今は思います。
それまで、自分で自分に課した役割の奴隷でした。10代は『優等生』、20代は『派手な子』。30代に入ってから徐々に破綻は始まって、最終的に販売職への転向で精神的に追い詰められました。どうしてもやりたくないことをやらなければならない、精神的な負担が大きかった。接客は好きだし、向いてる。だけど、買う気のない人にも売らなければならない、その役割には向いていなかった。
休職してからが、ひどく悩んだ時期。気がつくと、自分で自分の体を抱くようにして、ゆらゆらと揺れていた。好きなことって、何? まったく思いつかなくなってました。
初めて、自分の役割をなくした時期。役割とともに、自分らしさもなくしていました。
「自分らしさ」を探して
毎日まいにち、自分と向き合いました。精神科医に会うたび、上司からの電話のたび、訊かれる「仕事、したいの? したくないの?」への答えをどうしようかと。
仕事をなくしたら、私が私でなくなってしまう気がしてました。お金のことだけじゃなく、私は、自分に定めた役割をまっとうできないことを受け入れられなかった。「初めての挫折です」と精神科医に言ったように。
可能性をすべて考えて、現実的なお金の問題を相談し、最終的な答えは「仕事をしたくない」でした。言えたら、楽になりました。認めるまで、つらかった。認められないから、つらかった。
「自分らしさ」はよく、子供時代にヒントがあると聞きます。その意味は、「〜すべき」や「〜ねばならない」がなからでしょう。それらを、私は「役割」と呼んでいます。
私が望んだのは、朝の光を浴びること。日中の空を見上げること。ゆっくりと日々を過ごすこと。主人と一緒にいること。
販売という仕事は、夜が遅い。私の帰宅は10時過ぎ。朝早い主人とは、一緒に過ごす時間が持てませんでした。それが一番つらかった。
仕事では「接客してください」フロアの責任者に言われるたびに、腹が立つ思いでした。販売なのだから、当たり前のことをしろと言われてただけですが。話したいと望んでいない人にまとわりつくように感じて、とても嫌だった。むしろ、待ちたい。相手が話したいと思ってくれるまで。そんなんじゃ、販売には向かないですね。
人と関わっていたいとは望んでいます。相手のペースを尊重して。一人の人に時間をかけて、きちんと向き合いたい。それが、私の望みです。そう考えると、確かに子供時代にヒントはありました。何時間でも話しを聞いた、相談を受けるのが好きだった、人の役に立っていると感じられた頃を思い出します。
自分らしくあることの恐れ
自分らしくあろうとすると、ときに他者から排除されることがあります。私が会社員であろうとしたのは、まっとうな人間であると世の中に証明するためだったのかもしれません。社会の常識の範囲内にいようとしたようです。もっとも、世の中がそう望んでいるかどうか、私にはわからないけれど。少なくとも、未だ母は、働きなさいと言う。
自分らしさは、自分に特有のものでもあるので、他者からは奇異に映ることもあります。「ヘン」とか「おかしい」とか評価される。それでもいいか? 今の私は、かまわない。もしそういった評価が私に対してされるなら、そこは私の居場所ではないとわかったから。
自分にあった場所を探すなら、まず自分を見せるのが早いと思ってます。どんな個性も、その人のみに特有なものではないと思う。仲間は、いる。自分で自分を受け入れることができれば、それを現すこともでき、仲間も見つかりやすいと信じています。
まとめ
上記のような経験を踏まえ、私なりに「自分らしさ」をまとめると、以下のようになりました。
- 役割で変化しうる。
- 役割=自分だと思っていると、役割が終わったときに見失う。
- 自分自身で認められない部分に隠れている。
- 望み、したいこと、好きなことに、変わらない部分はある。
- 自分自身で、自分にふさわしいと感じることのできるもの。
自分らしさは、いつもここにあるものだとも言えるし、創っていくことのできるものだとも言えるんじゃないでしょうか。自分の内側で、気がついてもらえるのを待ってる。受け入れてもらえるのを待ってる。表現してもらえるのを待ってる。そんなふうに言うこともできると思います。
今の私は、木や草、太陽と空、静けさと時間的なゆとり、心と体のゆとりを必要とする、情に厚く甘ったれた、一人では生活できない人間。これをとても、自分らしいと感じています。