孤独と静けさと痛みと重み
キリキリとしぼりあげられるような孤独。
孤独はいつも静かだ。静けさと孤独はとても相性がいい。
なんだよ、孤独のくせに相性のいい相手があるのかよ。
痛みと重み。だけど痛みには透明感もあって。
いや違う。透明感のある痛みもあるけどそうじゃないのもある。たぶん。
つらいときって、感覚が研ぎ澄まされる気がする。いつもに比べてってことだけど。
つらいときって、言葉を紡ぎたくなる。なめらかに続かず、ぶちぶち千切れるようであっても。
よりたくさんを感じ取るから、言葉にして内から外へと出さずにいられないんだ。たぶん。
湖面は揺れる。たぷんたぷんと。
見ていると泣きそうになるのだけど、やすらぎもする。
言葉を理解できないって、ときに便利で。歌詞は問題ではなくて、雰囲気。この雰囲気があまりにもぴったりだ。
繰り返しくりかえし、何度もなんども聞いている。
言葉もわからず好きで聞いている曲のように、なにを言ってるんだかわからないそんな文章が一番私らしい。
ここのところ書いたものを見返していて、そう思った。
他の誰かが―――私を知っている人だとしても―――読んでみてなにを言ってるんだか言いたいんだかわからないだろうなと思う。そんな文章。
ただただイメージや感情を文字にしただけの。そんなものを私は書きたい。
真っ白な壁の明るい部屋にいて、立ち尽くしている。私はここでなにをしようというのか。
眠るには明るすぎる。だからなにかをする部屋なんだろう。それ用にしつらえるには、なにをするのかをわかってなくてはならないのに。
これから創るのだ。
心理学的に、と言ってもいいのじゃないかと思うけど、少なくとも心理カウンセリング的には、部屋や家は心の暗喩。
とても典型的で象徴的だと思うのだけど、心理カウンセリングに通いはじめた頃、私は部屋のイメージを見た。地下室だった。暗く、物であふれていた。カウンセリングを卒業する頃に、同じ部屋を見た。屋根裏だった。窓からは明るい光が射し込み、すっかり整理されて壁には飾り棚がついていた。白い部屋だった。
今見た白い部屋もたぶん、同じ部屋だ。置いてあったものはすべてなくなっている。飾り棚もない。空っぽの部屋。
私はなににでもなれた。なのになぜこの私なのか? ふと疑問が思い浮かび、ああ若い頃も同じことを考えたなと思い出す。
おもしろいものだ。あんなに多くの劣等感があったのに、それでも「なににでもなれた」と想えたなんて。
私は、私たちは、可能性をつぶして生きている。
幸せでも、人として成長はできる。
だけど、どうしてだろう? 苦しみほどに―――苦しみが昇華されたときほどに、人を深く豊かにするものはない気がする。
昔からの言い方に『苦労は買ってでもしろ』なんてのがあるけど、間違ってなかったとしても、人を選ぶと思う。身にならない、むしろ身を滅ぼすよう苦労もあると、私は思うから。
苦労もそうかもしれないけれど、苦しみは、経験のない人がいないと想うのよ。どんなものであれ。だからもしかしたら、苦しみも、人によってなんだろう。どんな人のどんな苦しみかによるんだろう。
しょせん私が言う「苦しみ」なんて、“私の”苦しみでしかないのかもしれない。
じゃあ、私は苦しみを昇華したことがあると言ってることになるね。そして私は深く豊かになった、と。
そうだよ。もちろん「当社比」だけどね。
Dancing with a Stranger のビデオを見て、サム・スミスの瞳には、静かなあきらめがあると感じた。
多くの人と違っていることよりももっとつらいのは、自分がなんなのかわからないことだと思う。ノンバイナリーの人たちは、自分を見つけるのに言葉で言い表せない苦しみをたどってきているんじゃないかな。どれほどに苦しいかは、ごく普通の人、自分自身に疑問をもったことのない人にはけしてわからないんじゃないかと思う。
彼らのような経験をしたわけではないけれど、共感するような部分が私にはある。
自分がなんなのかわからない、それが一番つらいんじゃないかと言うのは、私がそれを経験したからだ。
身体感覚的にも、体がバラバラになるようだった。気が狂いそうだった。―――今でも覚えている思い出せる。苦しすぎてどうしようもなくて、涙もでなかった。
上も下も右も左もわからない、たとえば宇宙空間に放り出されたらあんなかんじだろうか。
重さもなくしていた。地面に確かに立っているかんじ、みたいな。
自分の存在を確認できる術なんてないのだと思う。
あのとき私を救ったのは、かろうじてつなぎとめたのは、質問に対する答え。
「それでも自分を信じられるか?」に、ためらいもなく「YES」と言えた。そう言えるだけの基盤が、私にはあったんだ。
ひとつを越えると、次はもっと深くなる。こんな苦しみを味わったことはない、というものの次はまた「こんな苦しみは〜」なんだ。笑っちゃうよね。
これで「終わり」はないんだと知った。こんな苦しみはと思ったほどの苦しみを越えると、たえられるようになっていて、もっと深い苦しみを感じ“られる”ようになってしまう。たえられるようにもなってる。だから果てがない。だけど大丈夫なんだ。不思議にも思うけれど、大丈夫なんだ。
幸せで泣いたことがある?
とんでもなく幸せで、幸せの強さ大きさ深さに心がこらえきれなくて泣いたことはある?
自分の内側にとんでもなく綺麗なものを見つけてしまって、その綺麗さにたえきれず泣いたことはある?
良いものも悪いものも、自分の許容範囲を越えてしまうと同じように苦しいんだよ。
苦しみを乗り越えて、苦しみに耐性がついていって、それと同じように良い・善いものを感じられるようになっていく。
慣れてしまうのとは違う。より強く深く大きく感じることができるようになっていくの。
善い・良い←→悪い って計ろうとするけど、そうじゃないのかもしれない。究極なところで、良いも善いもそして悪いも同じものなのかもしれない。……ああ、そうだきっと。
社会的な善悪、自分の都合での良し悪し、そういったものを超越したところに“感覚”はあるのだから。
苦しみを越えると、静けさがある。
ハラハラと涙をこぼしながらも見上げる先には光がある。まるで教会にいるかのようなイメージだ。
あれは、休憩地点なのかもしれないな。
どこまで行かなくてはいけないのか、と思っていた。だって苦しいから。どこまで行けるだろうか、とは思えなかった。だって大変だから。
そうか、チャレンジだったのか。なるほど私が好きそうなやつだ。
痛みは孤独だ。痛みの重みにたえかねて七転八倒して、あがいてもがいて、そして乗り越えた先には静けさがある。その静けさを得たときの解放感は癖になる。
生きてることに、意味なんてないよ。
意味をつけられるのは、みつけられるのは、与えられるのは、あなた自身だよ。