星に手をのばすように
からだの内にあるものが、私をイライラさせる。
言葉になる前の“想い”のようなものなのだろう。
ながく、取り込むだけの時期が続いた。
私はもとより感じとる方を得意とする。外に表現するよりも。…どうだろう? 言い訳かもしれない。表現すること、アプトプットの訓練ができていないだけかもしれない。
感じるのは、素敵だ。五感と、もしかしたらそれ以外もあるのかもしれないけれど、どの感覚を優位に使っているのか、本当のところは自分でわかっていない。胸で、心で、感じる。そうとしか言えない。
感じとったものたちが、胸のあたりにゆったりとうねる。厚みや重みをもった、滑らかな質感をもったシルクのようなもので、息苦しくなる。
溜めすぎたんだ。そう思う。
エネルギー循環の法則、なんて、よく知りもしないものを想う。内に感じとったものは、何かの方法で表現して外に出すべきなんだ。
描くでも、歌うでも、踊るでも。自分の手や体を使うならなんでもいい。私は、言葉を選ぶ。言葉にしていくという方法を。
言葉。若い頃から、少なくとも10代からこだわり続けているのに未だうまくいかない。感じたものを言葉にすること。30年以上もかけているというのに。
訓練・練習は、効果的なやり方があるはずで、私はそれを知らない。泣けてくる。苦しくて。
そうだね、泣くのも“表現”だ。
雨があがり明るい陽のさしてきた朝に、胸の内を暗く重くして、言葉を探している。
何を表現したいのか。何を表現するための言葉を探しているのか。もうそこからして、わからない。
たぶん、なんでもいいんだ。言葉になるのなら。少しでも外に出してしまえば。
内側の保管庫に空きがなくて、いっぱいで、苦しいだけ。必要なだけの空きを作れたなら、苦しくなくなる。特定の何かを表現することが目的なのではなく。
最後に残るのは、感じることだと思ってきた。
年老いていけば、体はそれまでのように・思うように動かなくなっていく。まともにかどうかは問題ではなく、自分なりにアタマを使っていたのも、徐々に使えなくなっていく。モノとして長く存在するものは、当然のことわりとして、朽ちていく。そうして最後に残るのは、気持ち。感覚で、心で、感じとったものから生まれる“気持ち”。気持ちもまた、表現しなければ溜まっていく。保管庫の容量が少なかったり、多くともいっぱいになってしまえば、いわゆる爆発するというのが起こる。爆発するというは、不適切な表現となって外に出るということだ。私はそれを嫌い恐れた。
本当に表現したいものを、したいと望む形で表現するのは、とてもとても難しい。思ったように描けない・歌えない・踊れない。よく聞く。だから、少しでも望む形に近づけるようにと練習・訓練するんじゃないか。限界はあっても、納得のいくところまでもっていくために。言葉もそう。
うまく言えないと感じるのは、内にあるものにぴったりの言葉を探しあてられないから。
50年も生きてれば、知らぬ間に言葉は蓄積されている。10代では、言葉のなさに絶望した。今は、出てくる言葉に驚いたりもする。どこで覚えたのかと。
それでもぴったりの言葉を探しあてるのは、時間もかかるし、相当な労力がいる。ぴったりの言葉を求めるのは、星に手をのばすようなかんじだと想う。
練習することだね。効率が悪くとも、効果的なやり方を知らなくても。もっともっと練習することだ。言葉を探しもがくのに慣れていくといい。慣れていけば、もっともがけるようにもなる。
もっと老いてもっとアタマが使えなくなっていったとき、もがき慣れているのは「そういうものだ」と思え、爆発もしづらくて済むだろう。
書こう。少しでも。
話すのは、とてもよいのだけど、文字にするのとも異なる。私に必要なのは、今は、文字にすること。書こうとすること。