しぜんとこぼれる言葉たち
物書きになりたい!と望んでいたのは、中学から高校生の頃。物語、ファンタジーを書きたかった。
登場人物や断片的なシーンは見えていたから、書き始めてみた。
どうしてその登場人物はそんなことを言うのか、なんのためにそんなことをするのか、まったくわからずつないでいくことができなかった。
バラバラのピースは、バラバラのまま、一枚の絵として完成することはなかった。いくつもの物語。
物語が完成しなかったのには、もうひとつ原因がある。
書き出しては、手がとまる。
どう書いたらいいのかわからない。見えているものを、どう言葉にしたらいいのかわからない。
圧倒的な語彙の不足に打ちのめされ、自分が嫌になった。
まだ、高校生だったのだもの。と、今なら言ってあげられる。
高校生だって、豊富な語彙をもち、巧みに操ることのできる人もいる。私はそうではなかった。
しようがなかったのにね。まだ未熟だった。まだ、ね。
当時は、できないということが容認できなかった。
こんなにも胸苦しく書きたいことがあるのに、どうして書けないの?!
自分が嫌いだった。
自分を嫌う気持ちに拍車をかけた。
とにかく、書いてみるということをすればよかったのに。と、今なら言える。
細部なんていいじゃないか。ぴったりの言葉が思いつかなくても、とりあえずの言葉で記せばいいじゃないか。
思春期にありがちな、妙な自意識の高さゆえ、自分を許せなかった。
私にはできないのだと決め、物語を書こうとすることをあきらめた。
あなたの夢、カタチは変わったけれど、今こうして叶えているよ。
ブログを始めた頃はやはり、言葉が出てこなかった。なにを書きたいのかわからなかった。
なんでもいいんじゃなぁい?
そう思えるようになったことで、ブログとはこう書くべきの縛りを捨ててみたことで、こうしてつらつらと書くだけは書けるようになった。
私は、自由だ。
いつどこで覚えたのかわからない言葉すら、するりと出てくる。四文字熟語とかね、日常ではとうてい使うとは思えない言葉。
『当意即妙』なんで、なんで知ってるんだろう?
我ながら不思議なのだけれど、出てきた言葉の意味がわからず調べる。順番が間違っていたり、漢字が間違ってたりする。
トウイミョウトウって覚えてたよ…
それでも知っている、という不思議。
文体、などと格好のいいことを言えるのかどうかわからないけれど、文章の癖もナチュラルにできていた。
微調整はするのだけれど、最初のリズムをほとんど変えないで済んでる。
いつの間に、身についたのだろうか?
身についたというより、このリズムは、私のリズムなのだ。心臓の鼓動のようなものなのだ。
だから、私自身にとっては、とても心地よく感じられる。
おもしろい。
Web上にあるのだから、人に見てもらい読んでもらうものなのだけれど、私は私のために書く。
私自身がいいと思い、気持ちよく感じる言葉を。
それらは自然と生まれてくる。
最初から、こうしていられれば、よかったのにね。
ブログの始めのみならず、中学高校生の頃に。
でも、たぶん、しぜんとこぼれる言葉は、時がきたからなのだろう。
それだけの経験を積み、知識も蓄えてきたという証なのかもしれない。
若い頃に焦燥にかられ絶望したことも、きちんと活きているのだろう。
そうした道を通ってこなかったら、この私はないのだと思う。
あのときの私に、言わなきゃ。
失望も、あきらめも、むだではなかったよ。
あなたがいたから、私が在るの。ありがとう。