もうハリボテじゃない – 自分を信じられるということ
「いつもヘラヘラしやがって」激怒した経営者に言われ、驚いたのは、ちょうど1年前。
仕事でミスをした。やってはいけないミスだった。クリスマスの日付で、その仕事を辞めさせてもらった。表向きには「これ以上ご迷惑をかけられません」と。
心が、違うと言っていた。仕事を辞めた、私にとっての本当の理由を一言で言うと、そうなる。ミスはきっかけとなり、時期を早めた。
「まるでハリボテだ」と思った。
あれは、いつのことだったろう?たぶん、二十歳をすこし過ぎたぐらいの頃。何をきっかけにそのイメージを思い浮かべたのかも、忘れてしまった。自分に自信がなかった頃。
自信とは、自分を信じることだ。
解離もよくあった。現実が現実味をなくしてしまったり、想像と現実の境界線があいまいになったり、自分を自分だと思えなくなったりすることがあった。
そんなんで、自分を信じることなどできようか?
知り合いたちの評価がすべてだった。褒められていないと、居られなかった。私という存在は、他者からの好意的な評価によって、かろうじて輪郭を保っていた。
輪郭だけ。だから、ハリボテ。
好意的な人が減ってしまったり、いなくなってしまうと、輪郭さえもがゆらいだ。
「ハリボテだ」と断定したとき感じたのは、嫌悪だったろうか? 罪悪感だったろうか? せつなさや、かなしみだったかもしれない。
こんなんじゃ嫌だと思った。常に誰かを必要とするなんて嫌だ。いつもいてくれるとは限らないじゃないか。人に振り回されるなんて嫌だ。
他者を必要としない自分になろうと、決めた。
若さゆえ、と言うのは、かんたんだね。私は思い詰めて真摯に、決断を下した。
あのとき、あのコが決断してくれたから、今の私がある。自分が自分であるために、まず自分を信じることができるようになった私が。
私自身が、自分の長所としている明るさや笑顔について「ヘラヘラしやがって」と評されたとき、純粋に驚いた。傷つかなかったと言っては嘘になる。けれど、驚きの方が先だったし、強かった。
時間がたってから思い返して「そんなふうに捉える人もいるんだな」と思った。好みの問題だろう。私は自分の笑顔が好きだ。しかし、私の笑顔を嫌う人も、世の中には存在する。
そんなふうに事実を事実として認め受け入れるまでが、格段に早くなってる。そう気づいて、嬉しくなった。私は、自分を信じている。こんなふうに他者の評価で揺らぐのを、最小限にもできるときがあるぐらいには。
自信を持つ、自分を信じられるということは、自分を保つために他者を利用しなくなるということでもあると思う。褒めて欲しいから、という理由で人と関わる必要がない。その人が好きだから、という理由で関わることができる。経験や立場などの違いからくる対立であっても、相手も自分も尊重した上で、乗り越えていこうとすることもできる。
自信があるから他者を必要としないのではなく、自分を信じているから初めて、他者と対等と思えるようになったのかもしれない。
心が望むから、仕事を辞めた。言い訳? 自分自身だけが、それが本当のところだとわかっている。他者にどう思われようと、仕方ないねと思えるぐらいには。
そして、今私は、こうして心が本当に望むことをさせてもらっている。
私は、もうハリボテではない。