「意思」と「意志」について考える
主人と何かについて話すことは、とてもおもしろい。新しい発見のある、有意義な時間になることが多い。この前は「自由意思」について話した。
彼は自由意思を「自分の意思で、自由に選択できること」と定義した。
私は「誰かに何かをしろと言われても『No』と言えること」だと例示した。
きっかけとなったのは、主人のこのツイート。
1 自由意思ってなんだろう?とここ何日か気になっている。そもそものきっかけは「コンピュータは自発的に何かをすることができるか?」という疑問だった。
— 佐藤わんこ@理系っぽい文系 (@satowanko1) 2016年11月8日
頭に番号が振られていてわかりやすい。5まで続くツイートを読んで、2つの点で気になったのを、主人が帰ってきてから話した。その片方が、本題寄りの「意思とは何か」だった。
主人との会話で発見したのは、前提の違い。
彼は、目の前にいくらでも・なんでもある状態を前提としていた。その中から「自分で好きなものを好きに選べる」状態を想定していたことになる。なるほどと思った。
「とても幸せな育ち方をしてきたのね」というのが、私の感想。彼は与えられてきたのだ。自由に選んでいいよと、与えられる環境で育ってきたんだろうなと想像した。
もちろん本人に能力や才能があって、選択の幅が広かったというのもある。
一方で、私には「なかった」。少なくとも「ある」と感じてこなかったことがわかった。私にとって、欲しいものは勝ち取るものだった。
ここで言いたいのは、どんな環境で育つのがいいのか?ではない。人は、それぞれに違った前提で話をしていることがある、という一つの例だ。
後からよくよく考えてみたら、私は“意思”ではなく“意志”について話したようだと気づいた。
調べてみたところ、“意思”と“意志”は同じものとみなしているのと、強さが違うと主張するものがあった。
そうなの? そんなもん?
私の解釈だと、“意思”とは個人の欲求や好みに根ざす気持ちを指し、“意志”とは個人の価値に基づいた決定事項、となる。
たしかに強さは違う。
自由意志の問題とは、理性的な行為者が判断に対するコントロールを行うことができるか否か、という問いである。専門家の間でもよく見られる誤解は、自由意志を行為の自由(自由行為)と混同することである。人間による一連の活動は、(1)意志によって、(2)行為が発生し、最後に(3)結果が生じる、という形で一般化される。われわれが日常的に「思ったとおりに行動している」のは、(1)から(2)への遷移における自由行為に関するものであり、自由意志に関する議論と混同してはならない。
Wikipedia 『自由意志』の概要部より
さらにややこしく難しくなる感があるけど、上記引用をおもしろいなと思った。つまり「思い」と「行い」を混同するなと言ってるんだろう。