発見したものは、すでに発見されたものであったとしても。
頭の中で考えてることは、流れて行ってしまう。
川の流れとよく似ている。
逃したくないから、これはおもしろい展開になりそうだぞと感じるとスマホや紙にメモをとるのだけど、ジムにいた。
ルームランナーを止めて、ロッカーを開けようかと思った。けど、しなかった。
案の定、どんな思考だったのか、忘れてる。
そんなもんだよ。
何が思い浮かんだのかは覚えてる。
「すごく考えてがんばって、やっと、やっと発見したものが、既出だと腹が立つ」と考えていたのだ。
これを手がかりに━━思い出そうとするのではなく━━新たに考えていってみることをしようか。
何かに疑問をもつこと。
小さな子どもの「なんで?どうして?」と同じなのだと思っていて、私には習慣としてある。
自分がそうだから、誰しもそうなんだと思っていた。
違うらしい。
私は特に、解のないものが好きで、こうなるともう遊びでしかない。
「愛ってなに?」
父に問いかけ、お酒に酔っていたのもあって、さんざんくだをまき、号泣の果てに言われたのが
「もういいか? そんな答えのないものを」
父にしては珍しく、苛立って、どこか吐き捨てるような言い方だったと記憶してる。
私にとっては、号泣するほどに大切な問いだったのだけれどね。
たしかに応えてもらったところでどうなるものでもない。
哲学者のひとり、『汝と我』で有名なマルティン・ブーバーは、誰にでも家のドアを開いたと聞く。賢者に問いたいと望む、たくさんの人たちに。
しかし応える前に、こう訊いたという
「それについて考えて眠れないほどか?」
眠れないほどの人にのみ応えたという。
何年も考え続けることがある。
もちろん24時間365日を費やすわけではない。
折に触れ思い出し、しぜんと他のことに気をとられるまで、それについてあれこれ考えるというやり方で「これだ!」と気づく、あるいは思いつくまでをかける。
昔の貴族の毬蹴りと同じだなと、冷笑的に思うこともある。
愛とはなにか?を考え続けたところで、見いだすものは、人を助けない。
お腹がいっぱいになるわけでもないし、喉の乾きを癒すでもない。
なんの役にも立たない。それこそ、机上の空論というやつだ。
私は世界を救うスーパーヒーローになりたいのか?
否。
私には、実人生・日々の生活日常で、思考で遊んでいられるゆとりがあるのだ。
まさに貴族的じゃないか。
「役に立たないもの」を否定的に捉えてきた。
役に立つものだけに価値があるのだと、何かしらの“結果”を出すことのできるものにこそ価値があるのだと教えられ、求められてきたように思う。
役に立つもの、良い結果を出せるものには、たしかに価値がある。
役に立たないものを排除しようとしてきたことで、私たちは心のゆとりや豊かさを削ってきてしまったのではないだろうか?
夢をみること、想像の世界に遊ぶこと、それらは価値のないものだろうか?
ねぇ、とても、かなしいね。
がんばって発見したものは、世紀の大発見などではなく、もうすでに誰かが発見したものだと知ったときの怒り。
それまで自分がしてきたことのすべてが水の泡、なんにもならないことなんだと思ったから、激しく傷ついたのだと思う。
私が発見したものは、国を越え時間すらも越えて存在した誰かも発見したのだと捉え直したとき、ロマンを感じる。
オーバーだけれど、人間の普遍にたどり着きでもしたかのような。
発見したものはすでに発見されたものであったとしても、がんばって発見したのなら、がんばった当人にとって決してムダなものではない。
そこへたどり着くまでにしてきたことのすべてが、血となり肉となって私を造るのだから。
プロセス。そこに至るまでのすべてを、私は大切なものと価値付ける。
一歩一歩、自分の足で踏みしめて、自力で来たのでしょう? それに価値がないのなら、人間の歴史や生命そのものにすら価値がないじゃないか。
…話が大きくなりすぎた感があるな。
物事の価値は、よく云われているように、それこそ何にでもあるのだと信じたい。
目に見える形、手で触ることのできる形の“結果”にならなかったとしても。
思考は人を造る。
思想は時代を創る。
“結果”というものは、しょせん他者からの「使えるか、使えないか」という判断による評価なのかもしれない。
他者に、私個人の命の評価など、されてたまるものか。
他者の評価に自分を売りわたしなどするものか。
私の『避けたい価値』である“被害者”ぶるのは、やめよう。主体性をもつことで、力を取り戻そう。
ということで、他者から「なんの役にも立たないようなことを」と言われても、私は、私のもった疑問を、私の人生をかけて考え続けようと決めた。
哲人と呼んでくれてもいいよ。
こんなことを考えてたわけじゃなかったと思う。
どうしてこうまでかなしいと感じてるのか、それはまた別に考えようか。
けっして答えが返ってこないものに対して問い続けるのが宗教なんだ、と、知人が言っていた。