母から電話がくるたびに
母から電話がくるたびに、激しく心が揺れる。
こんな自分をどうにかしたい。
しかもまた NAS がつながらないとか、どうなってんの Mac。
心が乱れるときには、ほんのちょっとしたこともものすごく心の負担になる。
だからね、いつもより怒りっぽかったりするときは、何かが悪いよりもたんに心に余裕がないだけなときなのかもしれないんだよね。キャパなんて、環境や状況にも左右される繊細なものなんだ。
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昔むかしは相手のせいだと思ってたし、相手をどうにかすればいいんだと考えていた。
……いまでも条件反射でそうしてるし考えてる。と、気づくことが多々ある。
相手からの何かしらの“刺激”によって、私は反応している。と、捉える。認知行動療法では。
『過去と相手は変えられない。変えられるのは今これからと自分だけ。』という考え方を、認知行動療法ではする。
学んで、なるほどと思ったのよ。
どうしてかっていうのは、出来事や状況という “刺激” に “反応” している私たち|認知行動療法1 とかで言ってる。
母に必要なのは、説得でもなく、共感なんだ。共感して、それでなおかつ「じゃあどうしたい?」って、ソリューション・フォーカスト・アプローチできたらいいなと想う。
生きてきたというのは、私個人は、それだけで「サバイバル」だと思ってる。つまり、必死にがんばって生き延びてきたってこと。だから、報われるべきだ。私からなにがしかのかたちで報いをあげることはできないとしても。
あれだね、怨霊を鎮めるみたいなかんじ。
母に対して、私は娘だから、冷静でいるのが難しいみたいだ。とみにこの頃。
どうして? と想ってみる。
ひとつには、ここ1週間ばかりの気候の変化。大寒波だったり、それにともなってなのかの強風だったりの気圧かなんかの変化で気持ちにも余裕がない。気象病というのだよね。
ひとつには、幼い頃からの習い性で、母の期待には応えなければ“ならない”と思ってるから。これは、本当に根深いなと感じている。できないことも叶えようとして、でもしょせんできないから、自分を守るために攻撃的になる。怒るという反応で。
仲のよかった人が「よく家出してた。」と話してくれたのを思い出す。「家出して(マンションの1つ上の階から)見てた。」と言ってた。自分を探し迎えに行く親を。
———私にはありえない。信じられない。「出て行け」と言われたら最後なんだ。私は見捨てられる……そう思ってる。
あなたと私は、違う。あなたの親と私の親は、違う。
私はそのときいくつだったろう?
弟が、父に怒られていた。「出て行け!」と言われ、そのまま泣きながら出て行った。
あれは、私にとって衝撃的な出来事だったんじゃないかな? にもかかわらず、記憶の中の私は冷静に経過を観察している。
数分?まで経ったろうか、灰皿にタバコをつけて回し余計な灰を落とした父が「迎えに行け。」と行った。視線も上げなかったけれど、母へ言った言葉だ。立っていた母は、急いで出て行った。
びっくりした。
そんな出来事を見ても、私はいまだ信じられない。「私は見捨てられる」と信じている。私を連れ戻しに来てくれる人は誰もいない。ああそうだね、そう信じてる。だって、こうして書きながら涙が出る。
私は人を信じない。原点はもっともっと深いんだろうけど、このエピソードにも表れてる。「結局、私は見捨てられる」という脚本かなんかだと思う。
脚本とは、TA(交流分析)の用語であり、考え方だ。
私は自分でそうしむけてることもある。見捨てられないと、逆に不安になったりとかするんだろう。
親って、賢いんだと思ってた。すべて知っていて、どんなことでも対処できるんだと思ってた。無条件にそう信じていた子どもから、大人になってやっと最近、親の学のなさを知る。
まだうまく言えないのだけど、わかりやすいのは学歴か。
母の言うことを聞いていると、そうだよねと思える。だけど、考え方が間違っているとなと私は考える。
気持ちを想って、考え方が間違っているのを指摘しかねてる。———よかった、私も人の心があるみたいよ。
何をどう言ったらいいんだろうか? 私の考えてることをその通りに、どこまで言っていいんだろうか?
習い性としての、期待に応えなければならないがあったとしても、私にはできることとできないことがある。でも、期待に応えねばが強いから、できないのは私のわがまま=間違っていることなんじゃないかと考える自分がいる。
体壊したって、壊れるときまではできるでしょ?みたいなことを、内側にいる私の一部分が言う。
だからね、私が向きあうべきは、現実の母と私に内に取り込んだ“母”なんだろう。あるいは、内に形成してしまった……おや、逃げたね? 今見えたサブ・パーソナリティがいたのに、わからなくなったよ。
母が、家(正確には「団地の一室」)を売ると言う。
私は心配してる。彼女のやっていることは、判断は、果たしてどうなんだろうか? ———私は信じてない。それも彼女の学びとしていいのだろうか? と想ってみたばあいに、私に火の粉がかかるのを嫌がる気持ちに気づく。
ねぇ、私もやりたかった。できるだけのチカラのある自分でいたかった。だけど現実として、できない私なんだ。
無力を感じて、でもと思い直す。チャンスなのかもしれない、と。
私は私にできないことをハッキリと表明するのを学ぼうか。