私を一番ゆるしていないのは私自身だった
ああそうか、失敗したんだ。
怒りも悲しみも感じず、ただそう思った。
淡々とそう思えたのは、感情を殺したからではない。単純に、それを事実と認めたからだ。
努力したんだけど、そのつもりだったんだけど。どこかで間違ったのかもしれないし、してると勘違いしてただけなのかもしれない。
失敗した、という事実の前にあっては「なぜ」とか「どうして」とか理由を問うのは無駄なこともある。
自暴自棄だった。若い頃は、と思っていたのだけれど、そうではなかった。過去形ではなく、現在進行形で私は「自暴自棄なんだ」と自覚した。
いまだ自尊心が低い。自己肯定する術を学び身につけはしたものの、間に合ってないほどに。
「人並みに」ごく普通に健康な範囲の人と同じくらいにまでは、心をつくってきたつもりでいた。どうやらそんなことはなかったらしい。
この頃はとてもつらかった。どうやら認めないようにしてきたらしい。だから毎日お酒を飲んでたのか。
お酒を飲むと少し楽だった。
ああ私アルコールに依存してるなと気づいて、コントロールを取り戻そうと思い決め、飲まずにいる日もつくった。
そうしてしばらくして、ついに認めてしまった。今、ものすごくつらい、と。
これは更年期障害の症状のひとつだろう。
いわゆる「中年の危機」だろう。
だから?と、自分自身に反発する。理由みたいなものがわかったとして、つらいという状態に変わりはないのだから。
理由が何かより、「そうか私は自尊心が低いのか」と悟ってだったら自分に対しできることがあると気がついたことの方が大きな収穫だ。
私がここで言う「自尊心が低い」とは、もっとわかりやすく直接的な言葉で言い換えるなら「私には生きている価値がない」だ。
価値なんてなくていい。頭ではわかっている。けれど、心で受け入れていない。
「生きていてはいけない」と「生きている価値がない」は、別物だ。前者のばあいはわからないけど、後者だからこそ自暴自棄で無自覚にも自分をいためつけるような行動をとるんだなと納得した。
私の内に、私を否定し続け責め続ける部分がある。こういうのはなくなったと思っていたのに、ただ声を潜めていただけだったのかもしれない。
だから、私を一番ゆるしていないのは私だったのだ、と気づいた。
ああそうか失敗したんだ、と気づいたときもそうだけれど、自分をゆるしていないのは自分か、と気づいた瞬間も心はとても静かだった。ただの事実だから。
息もできないほどにつらい気持ちになったり、泣いたりするのは、それとは別の部分。私のサブ・パーソナリティたち。
これでやっとまた学んできたことが活かせそうだ。
いつか必要になるとわかってた。私の生涯に必要だと。この時のために、心理カウンセリングをサイコシンセシスを学んだんだ。
私は、私に優しい人がゆるしてくれるていどには、私をゆるさなければならない。
時間がかかるだろう。しばらくはとてもつらいだろう。
だけど、しなければならないことと、することがわかった。だから、やっていこうか。
ね。言葉にするって、たいせつだよね。
この瞬間だけかもしれないけれど、心がほんの少し軽くなった。
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