よろこびを奪われて生きられないから

2023.3.10

禁煙を始めた。きっかけはインプラントの手術を控えていること。タバコ吸ってるとうまくいかないことがあると説明された。その説明に納得したわけではないのだけど、やってみようかと思った。

公式には、ちょうど30年喫煙してる。
もちろんこれまでにも、近しい人から「やめたら」「やめなよ」と言われた。意思をもって「やめない」と応えてきた。けしてやめない気だったし、やめられないと思っていたから。中毒なんだ。

禁煙始めて2日目だったか、大泣きした。あの泣き方は、心理カウンセリングに通っていた頃といっしょだと思った。
悲しいわけじゃない。悲しいとは感じてなかった。泣くには、いくつかの感情がともなう。嬉し泣きとか、悔し泣きとか。1ヶ月ちょっとが経って思い返してみて、苦し泣きだったんだと思う。いろんなものが、言葉などの形にはならないのに外に出たがろうとするような。

中毒でないなら、依存。嗜癖は矯正できないとも云われている。不可能ではなくとも、とてもとても難しいと。その要因のひとつが、それによって得ているものがあるから。その個人にとってなくてはならない“何か”を。
タバコをやめてみたらどうだろうか? いつだったろうか、何年も前に想像してみた。とたんにソワソワザワザワと落ち着かない気持ちになったのを覚えてる。
たぶん得ていたのは1つではないような気がするのだけど、わかっているのはリラックス。タバコを吸うことで、私はリラックスしていた。

嗜癖をどうにかするには、別の(もっと健全な)方法で同等の“何か”は得られるのだと、本人が心から納得する必要がある。禁煙を始める前に、私は「リラックスなら得られるでしょ? ストレスのかかる生活もしていないわけだし」と考えた。

それよりなにより、できる気がした。「今なら禁煙できるかもしれない」気がしたのだ。初めて。
本日時点で42日、禁煙が続いている。できてると言えると思う。

1ヶ月ぐらいの間、気持ちの急変がすごかった。我慢するというのが、普段からしてないつもりでいたけれど、全然まったくできなくなった。ひと月が、ようやく過ぎて、少し落ち着いたとはいえ、まだ以前には戻っていない。戻れる気もしない。

禁煙始めて、生きていたくないと思った。死にたいんじゃない。あくまで、生きていたくない、なんだ。これは今も続いている。
なぜ生きていたくないのかというと、どうやら「よろこびを奪われた」と思っているらしい。

禁煙に直接関係があるのか? ないとは言えない。けれど、どのていど関係があるのかはわからない。たぶん更年期も関係してる。更年期“障害”。
“障害”とは、日常を普通に暮らせないさまなのだそうで、なるほどこれが障害かと思う。
それまで毎日に感じていた幸せを、まったく感じられなくなってしまった。なにがどう幸せだったのかもわからなくなってしまった。よろこびを奪われたからだ。

ある日、手首を切ろうと思った。今なら痛くないと思えた。切って、湯船に浸かろうと考えた。
翌日、いくらなんでもそんなふうに考えるのはおかしいと思えた。
これまでのほとんどを死にたがって死ねないできた私にとって、どんなふうに死のうかと考えるのは特に変わったことではない。でもね、一般的には死のうと考えるのは「おかしい」ことなんだよね。
おかしいと思えたから、我に返れた。どうにかして生きることを、よりよく生きることを考えなくてはならないと思えた。

夢中だったゲームもする気になれない。立ち上げてはみても、やはりやる気になれなくて終了する。
この1ヶ月ほどで、唯一できたのが、映画やドラマを見ること。あってよかったNetflix。ドキュメンタリーの類もよかった。そして音楽。

音楽を好きだったんだと思い出した。音楽を聴いていると、生きてるかんじがしてきた。

転機だ。転換期、変わり目。言い方はどうでもいい。これまでのあれこれが通用しなくなり、新しい試みをしなくてはならないとき。
そう思ってみたら、ああまたかと思えた。未知の、まったく新しい出来事が起こっているわけではなく、これまでにもあった対処してきたやつなんだと。またかよというような嫌だな面倒だなと思う気持ちが、不安や恐れと取って代わる。
面倒だし歓迎できはしないけれど、やっていける気がする。生きていくためには、これがいるんだろうたぶん。

無理に自分を奮い立たせたり駆り立てたりしなくてもいいの。
だけど、一時期が過ぎたら大切なのはきっと、あがくこと。もがいてみること。
よろこびを奪われては、生きていられないから。

つれづれ

Posted by nao