晴天の雨|体で感じる心
真っ青に晴れた空から、シャワーのように細かい、冷たい雨が降る。
百貨店での店頭販売をしていた頃、朝10時が、出発駅のホームに立つ時間だった。それまでなら、もうとうに仕事を始めている時間。
疲れのとれない体を持て余し、慣れない仕事の手順を思い浮かべながら、電車を待っていた。
胸の痛み。心臓のあたりに、痛みを感じた。
心房中隔欠損という病気だった。母親のお腹にいる間には、誰でもそこに穴があって、生まれてから徐々に閉じるのだという。穴が閉じぬままに大きくなる子も少ないわけではなく、国から手術の補助が出るくらいにはいる。私もその一人だった。
見つかったのは中学に入学した後の健康診断。心電図で引っかかり、再検査を受けるようにとの指定で行った病院の待合室で、まさかねと、母と笑っていたのを思い出す。
大きな穴でなければ、手術はしなくてもいい。ただ、念のためにと1年ごとに検査には行っていた。18になると、国の補助が出なくなる。その前に手術をした。
実際の穴の大きさは、正確に知ることができず、担当医は、やってよかったと言っていた。口ぐらいの大きさがあったよと。
手術さえしてしまえば、何しても大丈夫なはずなのだけど、よく心電図では引っかかる。そんなだから逆に、少しぐらい心臓のあたりが痛かったとしても、肉体的な心配はしていない。気になるのは、肉体でなく、心。
痛みは、いろんな意味でのメッセージ。カウンセリングを学んで、フォーカシングという技法を習得してから、体で感じる何かに耳を傾ける習慣がついていた。体のどのあたりで、どんな風なものを感じるのかを感じていくのだ。
ほぼ決まって毎朝、駅のホームで感じる痛み。仕事に行くのがそんなに嫌なのかと考えながら、痛みとともに居るということをした。目的地に着くまでには治る。
「かなしい」と、その痛みは言っていた。
本当の原因がわかったのは、ずいぶん経ってからだった。
何を話していたのかは、すっかり忘れてしまった。主人に向かって何か話していて、泣き出した。その間、あの痛みを感じていた。
痛みとともに居ながら、悲しくてかなしくて泣いていると、感じるものの質が変わったのがわかった。まるで溶けていくように。
ガラスのように透明な、冷ややかさ。まるで薄い氷のような。色鮮やかで、それはそれは綺麗な感覚。あの涼やかさを喩えたのが、冒頭の一文。
その瞬間、胸の痛みの本当の意味がやっとわかった。私の胸は、淋しさに痛んでいたのだと。
一緒に暮らしながらも、すれ違ってしまっていた。夜の1時間程度しか、顔を合わせていられなかった。それを淋しく悲しく感じていたことに、意識は気づけなかった。体が教えてくれていた。淋しくて、悲しいと、胸が痛んだ。比喩によくあるように。
どのぐらいだかわからない日数を、痛みと居るようにして、やっと感じ切ったのかもしれない。泣いている間に、かもしれない。「かなしい」と訴えていた痛みが、愛しみに変わった。清々しくも綺麗な感覚に。
以来、あの胸の痛みは感じていない。
原因は、肉体的なものでも、嫌でしようのなかった仕事でもなかった。頭で考えてもわからないことがあるという、貴重な体験。